赤いスカート

 

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 小さい赤いスカートは私に一番小さな娘、アキコの幼い頃の姿を思い出させる。目を閉じると、約40年くらい前のアキコが赤いスカートをはいて実際に私の前に立っていたのを今だはっきりと思い出せる。

 1934年、私は「満州の花嫁」運動の一環として、結婚し中国に引っ越しました。満州での生活は、豊かな土地と豊富な収穫物で、過ごしやすく快適なものでした。3人の子供をもうけ、彼らと愛しい夫と、幸せな日々を過ごしました、夢の中にいるように。

 私たちの田園暮らしは、1944年、夫が徴兵され終わりを告げました。1945年のある日、私たちの長閑な村は何百ものロシアの爆撃を受け、大連へ避難せざるえませんでした。私たちはソビエト兵に見つかるのを避けるため、夜の間に移動したのです。私を含め、全ての女性は、顔にすすをつけ、頭を刈り、男に見えるようにしました。大連に行く途中、私たちはソビエト兵に何度も何度も見つかり、攻撃され、そして大勢の人が亡くなりました。さらに困ったことに、ほとんど食料もなかったのです。飢えを寒さは子供たちから幼い命を奪っていきました。大連の避難民キャンプに着いたときは、私たちはへとへとに疲れていました。

 キャンプは満州のいろんな所から逃げてきた日本人で溢れかえっていました。食べるものもとても少なかったです。私は手伝いになり、お金を得て子供たちのために食べ物を買うためだけに。中国人家族のところで、働きました。

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 ある日、兵隊からキャンプの各家庭に一枚の赤い布が支給されました。私は、これを材料にアキコのためにスカートを作ろうと思いつきました。彼女はいつも同じ古いスカートをはいていたのです。かわいい新しいスカートをはいたアキコを見るという考えは、私がどれほど疲れも忘れさせました。私はそれを作り終え、2つ花の形をしたボタンをサスペンダーの止め具に縫い付けました。アキコはスカートはいてとても喜んで、友達に見せびらかしてたものです。

 そのあとすぐ、私がいつも通り家に帰ると、アキコがいないのです。私は、彼女がいつも友達を一緒に探しているところ全てを探しましたが、彼女をどこでも見つけることはできませんでした。誰かが、赤いスカートをはいた女の子がキャンプの近くの公園で見知らぬ人と話していたと言ったので、私は突然、彼女は遠くに連れていかれたのではないかという不安に襲われました。夜がきて、探すのをやめました。その日、一睡もできませんでした。

 次の朝早く、もう一度アキコを探し始めました。外は、まだ寒く暗い。「赤いスカートをはいた女の子を見ましたか?」 わたしは会った人みんなに尋ねましたが、だれも見ていません。街中を歩き回り、彼女を探しました。小さな女の子を見るたびに、駆け寄りましたが、それは決してアキコではありませんでした。暗くなってから失意の中、家に帰りました。

 来る日も来る日も、アキコを探しに出かけましたが、どこにも彼女についてのニュースはありませんでした。すぐに私たちがキャンプを去らねばならない日がきました。わたしはそこに残る主張しようとしましたが、役人たちは日本に戻るよう説得し、わたしの娘を見つけ、家に送ってくれると約束しました。

 船に甲板から波止場の群集を振り返り、アキコがそこにいるかもしれないと期待しました。船が出発したとき、わたしはもう娘と会えないだろうと思い始めましたのです。

 私は家に帰りました。2人のいない家族と共に。夫はまだロシア内に抑留されており、アキコは中国のどっかにいたのです。

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幾年か経ち、いつかまた娘に会うという希望が薄れ始めました。アキコの写真を全て焼き、私の思い出から彼女を追い払おうとしました。しかし皮肉にも、それは彼女の思い出を再燃させ、そして苦しみを増やしただけでした。

 1962年、夫がロシアから戻って来て、青森での新しい生活が始まりました。その年、あきこは24歳になっていたでしょう。私は完全に彼女のことを諦めていました、少なくとも、自分自身にそう言いきかせていました。しかし夫は私たちの娘を探そうと元気付けてくれたのです。

私たちは市役所および県庁をアキコについて問い合わせるために訪ねました。私は役所に探すときの助けのために情報を提供したのです。彼女は私が最後に見たときは赤いスカートをはいており、そして額に小さな傷跡がありました。しかしあらんばかりの努力に関わらず、なんにも進展しませんでした。

 しかしながら、1972年、日中国交正常化は私たちに新たな望みを与えてくれました。正常化の結果、日本政府は中国に残された戦災孤児を返してくれるよう要請したのです。孤児が日本に戻ってきたニュースと報道されるたび、私たちの目はテレビ画面に釘付けになりました。けれど、私たちは毎回がっかりするはめになりました。なぜなら、そのニュースには私たちの娘の所在を導くような情報なかったからです。

 そして、1983年のある日、夫は私を呼び、テレビに映ってる母親を探している女性を見るように言いました。彼女は母親からもらった赤いスカートを握っていたのです。直感的に、彼女はアキコに違いないと確信しました。私は東京行きの始発に乗り込みました。彼女の泊まっているホテルの部屋に入って、すぐに、私はわれを忘れて、「アキコ!」と大声をだしていました。そして、たくさんの人が立っている部屋の中から女性が走り寄ってきました。それはアキコでした。わたしたちのアキコでした!私はこの瞬間を38年間も待ちつづけていたのです。始めは握手し、そしてお互いを一言も言えず、抱きしめました。彼女はずっと前の赤いスカートをしっかりと握り締めていました。

 彼女はずっと前に中国人の人と結婚しており、何人かの子供もいました。彼女は40代でしたが、実際より年をとって見えました。私は彼女がどれほどの辛苦を経験しなければならなかったのか想像でき、涙を止めることができませんでした。

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 彼女はいた5日間、まるで失われた時間を取り戻そうとしているように、私のそばを決して離れませんでした。彼女は今やほとんど日本語を話せず、2人ともどれほど彼女が話せたらと思ったことでしょう!私は彼女がどのように姿を消したか、通訳の人のおかげでわかりました。

 彼女は道に迷って、親切な中国人の男の人に見つけてもらい、家に帰る道を探すのを手伝ってもらいました。しかし、上手く行かず、彼は彼女を家に連れて帰りました。次の日、彼は彼女と一緒に家を探しはじめました。また上手くいかなかったので、彼女は新しく中国人家庭との暮らしを始めたのでした。徐々に彼の家族の親切さは彼女を気楽にさせていき、時期に家族に一員になったのでした。彼女はわたしに、中国人の両親はとても世話をみてくれたけれど、私を忘れることができず、思い出として赤いスカートをもっていたと言いました。中国人の両親は彼女が古い思い出にとりつかれないように、何度も何度もそれを捨てようとしたのでした。彼女は彼らのしていたことは残酷からではなく親切からだと知っていましたが、スカートが隠されるたびに、必死に見つけようと努力しました。彼女はもしそれをなくしたら、二度と私に会えないだろうと思っていたからです。

 彼女が戦争孤児が日本に戻るという知らせを聞いたとき、ちょうど私と同じように、絶好の機械に飛びつきました。38年間、私は赤いスカートをはいた彼女を夢に見つづけていた、海を越えて、彼女は彼女のために幾晩もスカートを縫って過ごしていた私を想っていました。私たちの共有できる思い出は装飾されたボタンをつけたスカートでした。彼女の5日間の滞在期間が終わり、アキコは家族のもとに帰らざるえなくなりました。彼女の夫と4人の子供が待っているのです。彼女は私に家族の写真を見せてくれました。中国で幸せに暮らしていると彼女は言いました。日本から発つとき、彼女はスカートを私に残していきました。初め、私は、彼女が今中国で暮らしているのは受け入れがたかったのですが、彼女が向こうで幸せに暮らしていると話を聞くと、それでいいのだと自分自身に言いました。戦争は、結局、私たちの運命を変えたのでした。

 彼女が日本に戻ってきてから、あきこは私たちを3回訪ね、私たちは彼女とその家族に会うために中国に渡りました。今、私には日本と中国に15人の孫がいます。彼らには私の味わったような同じ苦しみで悩んでほしくありません。もう1つの赤いスカートの話は決して聞きたくないのです。

 

※意訳したり、言葉をつけたしたりしました!

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