シーカ谷生命線

Q1.なぜ多くの人々がアンプルナ地方に旅行にいくのか。
Q2.なぜ若い人々が村に目立っていないのか。
Q3.ヒマラヤの土の侵食によりもたらされるものは何か。

 

 シーカ谷は地上においてもっとも高い山々のいくつかによって囲まれている。一番近い町、ポカラから歩いて二日、この高い山は海抜2000Mのところに位置している。

 毎年、世界中から何万もの旅行者がネパール南部のこのアンプルナ地方に、壮大な美しさと変わらぬ高地人の生活に魅せられて、旅行にくる。

 ヒマラヤを遠くから見ると美しいが、シーカ谷でもっと近くからみると、多くの環境のダメージがあるのがわかる。山のは面は小さな岩美やまくぜれ似覆われ、木の枝は全て村の人々の人口拡大のための燃料と家畜のエサに切り取られている。若い人々は仕事を探しに行って、目立っていない。

 ここの森林破壊は単に地元の問題ではない。シーカ谷流域はカリカンデキ川の水源で、その川は他のネパールの川の支流とともにカンジスカワに流れ込む。土壌侵食はおそろしい洪水を北インドからバングラディッシュにかけて引き起こす。これらの洪水は何千もの人々の命を奪い、発展途上国に経済的ダメージを与える。

 しかし、これらの大きな問題に関わらず、人が村にくるとき、実際機能の象徴が目に見えてある。段々畑、菜園、植林、そして山の斜面にかかっている変わったロープ。

 

Q1.30年前の村人の生活はどのようなものであったか。
Q2.多くの機の伐採による影響は。
Q3.エコロ−プラインはなんのために使われているか。

 

 30年前、日本人文化人類学者の川喜多二郎氏はシーカ谷を訪れた。その時の、村人の生活は今よりずっと大変であった。その地方には電気と水道がなかった。燃料や家畜のエサ、肥料は全て森から供給されていた。

 7ヶ月の滞在の間、彼は木々が再生するよりも早く切り取られてしまっていることを目にした。とても近いエリアにおける、この木の不足で、村人たちは焚き木を探しにどんどん遠くへ行かなければならなくなった。木を切るのに午前中いっぱい、それをそれぞれが背中に50kgも背負いながら持って帰るのにもっと時間がかかる。

 昔では枝は木々が新しく枝を再生できるように、注意深く焚き木や家畜のエサに選び抜かれていた、そして森林の土壌が肥沃であるように、落ち葉はごく少量だけ集められた。しかし、登る距離が長くなったため、目に見える範囲で全てを採るようになってしまった。木の過剰伐採と過度な落ち葉収集は、村の周りに極端な森林破壊を引き起こした。

 川喜多氏は見たことに驚き、基本的な技術の形成の助けが緊急に必要であった。

 「長い時間がかかった。」と川喜多氏は振り返ります。「けれど、私たちは最終的に1970年にそのエリアを調査し、エコロープライン計画を1974年に開始しました。」

 「私たちはシーカ谷に5ヶ月以上住み、人々の問題を研究し、1900何Mの長さのエコロ−プラインを建設しました。」と、川喜多氏に1974に合流した技術士の千野俊夫は言います。彼は計画の背後にあるアイデアを説明してくれます。「私たちは鉄鋼のワイヤーと木を森や谷を超えて、森から村までぶらさげて運べる滑車を使って、エコロープラインを造りました。」

 「多くの時間とエネルギーを木を運ぶためにかかりました。」と川喜多氏は言います。「しかし、エコロープラインは時間を1分に縮めました。人々は余った時間を自分たちの畑で働らいて過ごすことができるようになったのです。」

 川喜多氏に率いられたボランティア団体は同じように、6000人の人々への水道施設を、25,000Mのプラスチックパイプを使い造った。このことは、遠くの小川から大きなバケツを使って水を汲んでくる村人たちの仕事を終わらせた。水道施設にさらに、電気を供給する3000Wの水力タービンも造った。夜に子供たちが勉強できるようになるので、村人たちはこの施設のもたらす電灯に特に喜んだ。

 エコロープライン計画に関して、川喜多氏はこう言っている。「ある人たちは、村人たちが枝を切って集めやすくなるので、さらに多くの枝を集めてしまうのではないかと考えています。しかし、実際は、簡単になったおかげで、彼らは毎回必要な分だけ集めます。そしてあまった時間を植林に使っています。家畜のエサが増えると、さらに多くのミルクがつくられます。家畜が増えると、肥料も増え、それは畑にさらに作物をもたらします。なによりもまず、おそらくエコロープラインは人々の心に平穏を与えたのです。」

 全部で17基のエコロープラインが作られた。そのうち11基はまだ使われている。千野氏は、建設、修理、そしてときどき鉄鋼のワイヤーをきつくするために最初に行った時から15回も谷へ戻った。彼のようなボランティアがプログラムを履修したので、今では多くの村人たちが自分たちでロープラインを修理できる。

 

1.ロープラインは多くのシーカ谷の問題を解決したか。
2.山の生態学の学校(以下MES)はなんのために創設されたか。
3.日本人が村人たちから学んだことはなにか。

 適度な技術の使用だけでなく、ボランティアと村人たちが彼らでチームを組織したことで、シーカ谷の静かな変革のニュースはネパール中に段々と広がった。しかしながら、シーカ谷には多くの解決されるべき問題が残っている。例えば、つい最近まで存在しなかった、人口拡大の問題。村における生活はとても速やかに変わってきているが、村人たちにとって良い方法であるとは限らない。

 「通っていく多くの旅人が村人たちにお金をあげていくのです。」と川喜多氏は言う。「人々は西洋文化にさらされ、どんどん若い村人が現金収入を求めて去ります。若い人が村に楽しみをみつけられないというのは危険な兆候です。」と彼は言う。

 このことや、他の問題に取り組む計画は1992年に始められた。収入をつくりだすこと、女性問題、健康、教育、飲み水、自然農法、林業、適度な技術、そして地すべり対策など、今までシーカ谷の村々を助けてきた。

 この計画の主な活動は1992年3月から2回開かれたMESである。この企画は生態学とその地の人々の生活を学び経験する1ヶ月の課程に参加する機会を旅人たちに与える。

 「旅日地たちはお金をあげるだけでなく、」川喜多氏は言う。「この地域の生態系も学ぶべきです。これは今日(こんにち)の世界中の全員にとってとても大切なことです。」 

 だいたい30〜40人の日本人が毎回、参加するため34万円を払っている。「このことは3つの点で村人たちの助けになります。」と川喜多氏は説明します。「1つ目は、熟練したガイドの協会によって、旅人は村人にお金を払い、それが助けとなります。2つ目に、村のロッジの組合によって、同じように収入を得ます。そして最後に、その地域の教職によって、教師は収入を得るのです。これら全てが収入の助けとなる特別な形です。」

 しかし川喜多氏によると、一番大切なことは、MESで、村人と旅人が生涯の友になれることだ。この課程はまた村人たちに自分たちの村のことを考えるように促しさえしたのである。「私たちは彼らに、自分たちが生態系のもっとも大切な役割を演じていることを知ってほしいのです。」と川喜多氏は言う。

 学校の生徒と共有した感情を表現しつつ、村で20年間働いた経験のある千野俊夫氏は言う。「私はとてもシーカ谷に住んでいる人々を尊敬しています。私たちが与えたものより多くのものを得たと思うのです。彼らは自然とどう共存するかを教えてくれました。」しかし同じようにネパール人も多くのものをもらったと思っている。彼らは今や、川喜多氏が30年前にシーカ谷と人々と共有した生活の結果始まったエコロープラインシステムをネパール中に広めようと計画している。

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