思考

ベストエフォート方式。
 
 インターネット接続のふれこみなんかで「最大100M」なんていう文章、よく見る。
 よーするに「通信速度が一番すごい状態で100Mでますぜヘヘヘ」ということなのだけれど、これってよく考えてみるとけっこう無責任な情報でないか。
 
 こういう、技術的に最高の状態を紹介しつつ、いつもいつもそうとは限らないというサービスを(特に通信に限って言うのかも知れないけど)ベストエフォート型という。その最大性能に保証はないのだ。
 サービスの内容によっては「最低どれくらいの性能が出るのか」とか教えてくれるところもある。でもでも、とにかく看板にしている謳い文句はいつも「最大〜メガ!」とかなのだ。なんかズルくないか。
 
 保証していないから、とにかくフルパワーが発動されなくとも「だっていつもいつも最大が出るわけじゃないんだもーン」という反則気味な心持ちを感じてしまう。だいたいウチのADSLは48Mだったと思うけど、そんな能力一度も発動したことないぞ(ADSLには基地局からの距離も関係するんだけど)。
 
 こんな商売を許していいものか。だって、たとえばベストエフォート方式のラーメン屋さんとかがあったらどうだ。「うまい!本気が出せる状態ならば」というふれこみのラーメン屋に、キミは入るか?・・・まあ、ちょっと入りたくもなるけど、明らかにちょっとおかしいだろう。
 あとはベストエフォート方式の宅急便屋さんはどうだ。「翌日配送!技術的には」という宅急便屋にキミは頼むか?
 
 ベストエフォート方式の医者、ベストエフォート方式の山岳ガイド、ベストエフォート方式の目覚まし時計、ベストエフォート方式のお坊さん、ベストエフォート方式の警備会社、ベストエフォート方式の自動ドア、ベストエフォート方式の冷蔵庫、ベストエフォート方式の家の鍵、ベストエフォート方式のザオリク(それってザオラル??)・・・・。
 
 最近のパソコンも並々ならぬ努力で進歩して、ホントに性能がすごい。でも、多くの家では、実際はそんなにすごい性能はいらなくて、すごい能力が無駄に余っているのだ。それがオーバースペック。
 多くのことが理解できるだけの脳みそを進化の過程で身につけながら、その事柄の多くを知りもしないで死んでいくのはオーバースペックだ。

 極めて個人的なことだけれど、考えるクセをつけようとがんばっている。考える練習が出来ていれば、いざ「本当に考える」という事態に陥ったとき、スムーズに考え、答えに向かうことが出来るからだ。
 
 「考える」ということの正確な定義はわからないんだけど、僕の考える練習で重視しているイメージは、「受け取ったままに脳に保存しない」ということだ。例えるなら何かモノを見た時、正面から見えても、そこからサイドビューを考察してみる。そんなイメージだ。「側面」というヤツはあらゆるものにある。考える練習が出来れば、大事な局面でその側面や、うまくいけば裏側が見えるかもしれない。ちょっとニュアンス的によくないけれど、わかりやすい動詞で言うなら「疑う」というのが近いだろうか。考える練習の初歩は「疑う」というところからはじめるといい。
 
 サッカーワールドカップが放送されていた。大変なブームだ。日本開催も盛り上がった。でも、ブームをブームとして受け止めず、どうしてブームになったのか、とかどうやってブームにしたのか、なんてことを考えてみる。もちろん正しい答えなどはないし、あらゆる力が総合的に働いて出来たのかも知れないけれど、仕掛けた人が仮にいると「考えて」みるのだ。
 そうすると、日本開催の10年前にJリーグがはじまったことなんかも、すべて仕組まれていたのかも知れない、なんてことが「考えられ」てくる。Jリーグという土壌から日本のサッカー熱が盛り上がったのではなく、サッカー熱を盛り上げるために、すべて仕掛けられていたのだとしたら・・・。ドイツ大会の日本の参戦決定で算出された経済効果は5000億円とも言われている。それだけのお金が動くなら、こういうことを全部全部「考えて」、計画どおりに物事をすすめている人がいたっておかしくない。
 あるいはほとんどの先進国がサッカーに馴染みがあることも見逃せない。国が国際交流の手段として、「サッカーくらいできる国じゃなくちゃ」などということを「考えて」、巧妙にしかけたのかもしれない。そんな風に考えると、あらゆるブームは素直に喜べなくなっちゃうけれど。もちろんあらゆる文化に乗る人たちは、それがビジネスの上に成立することを知ってて乗るわけだから、当たり前と言えば当たり前なのだ。
 考える練習が進歩すると、考えるという事自体が「経験」となり、瞬発的な判断力も上がってくる。過去に考えたことのある例に照らし合わせて答えを導くことが出来るからだ。考える練習をしていないと、いちいち問題に当たるたびにそれについて初めて考える羽目になる。思考力を鍛えていない人間というのは判断力が鈍いはずだ。
 つまり、考える練習を積むことで、思考は直感に近くなるのだ。そろばんをしていた人が暗算も速くなるように、長い考察を短くできるだけの「脳の処理の習慣」が身に付く。と、思う!!思考する道程の過程が近道できるのだ。社会心理学では確かメンタルショートカットって言ったなぁ。

  ・・・で、なぜ、思考力を鍛えているのかというと、せっかくの脳がオーバースペックで終わることが恐ろしいからだ。もっと古くて安いCPUでも事足りたよ!なんていう人生はまっぴらゴメンじゃないか、と思ったのだ。僕たちの脳は先祖たちの並々ならぬ努力でコンニチまで進化した。ほかの動物の追随を許さぬほどにその性能は高い。他の動物の脳の容量でもキミは全然大丈夫だったねって実際どうなん!?

 使い切りたい、脳を。
 
 誰も、死ぬ時にそんなこと「考えない」としても。



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