Play a role

「優しい」って「役割」だ。
 
 「本なら熟読、人には親切」というのが僕の理想ではあるけれど、なかなかそうはいかない。立場の違いで戦わなくてはならない相手がいたり、憎しみのあまり余計なことをしてしまったり。
 それでも最近は「ついカッとなって」みたいなことは少ない。このごろ僕が怒るときは自分の手のひらの上でのことだ。「あああーそろそろ怒ってみせたりもしなくちゃな、面倒くさいなあ」という感じ。本当はずっと穏やかでいられたらいいのに。外面の話でなく、内面が。怒ったり、もめたりって本当に面倒くさい。この面倒臭さは、僕の中にある数少ない「結果としての優しい部分」だと思う。もめ事よりは自分が傷ついたりする方がずっと楽だ。
 
 このごろ思うのは、「争い」というのは意見がくい違って起こることよりも、同じモノが必要になって起こることの方が多いんじゃないかということ。つまり趣味の会う人同士の方が争うことになるんじゃないかということ。一人の人を取り合って、とか、より多くのお金が欲しくなって、とか。気が合うんだと思う。だから争う羽目になる。
 
 個人的な事情の場合、欲しいものを強く「欲しい」と伝えきれないことがある。その分、我慢する能力ばかり鍛えられてしまった。主張を押し通す前に止めたくなってしまう。それは「苦しい想いをしている方が尊い」という勝手な思い込みのせいだ。人は時にそれを「冷静」と評価するし、見方によっては「それほど欲しくもないんだ」とも思えるだろう。でも僕に言わせればただのビンボーくじだ。強い人間は強く生まれたのではなく、「強くなければならない立場である」ということがほとんどだ。
 主張の少ない、思いやりのある感情を「優しさ」という。「優しい」というのは、情が細やかで他人に思いやりがあるというだいたいの意味の他にも、「しとやか」や「控えめ」や「つつましさ」や「けなげ」なんかの属性を持つ。こう書くといかにも尊いけれど、人生的には言ってしまえばババばっかり引かされるのだ。それではきっと欲しいものは手に入らない。たいていそうだった。だからと言って子供のようにダダをこねて何でも手に入れる大人にはなれそうもない。もう僕はとっくに「強くなくてはならない立場」に入ってしまっているからだ。
 
 力んだり抗ったりし過ぎずに、縁があって自分の手に落ちてくるようなものだけ、自分のまわりにあるのが本当は一番いいのだと思う。でもその縁とか運命(命を運ぶと書いて運命だ)とかの中に、どれだけ自分が努力する割合が含まれるのかと、いつも考えてしまう。がんばらなかったせいで失ったら?でもがんばったせいで誰かと争うなら?
 結局いつでも世界の仕組みの中で、僕は「優しい」役割を果たすように運命づけられているような気がする。僕が我を通して何かを欲しがるのは、世界の仕組みのバランスの中で非常に良くないことなのだ。我慢することでみんなが幸せになれるならば、僕はそれで幸せだ。それ以外に幸せであれる状態がなかなか見つからない。
 自分の役割があるならば、それを全力で演じなくてはならない。この世界は長い長い舞台なのだ。観客の心を動かす演技を必死にしなくてはならない。足を踏み外しそうになってもばれたらいけない。観客の拍手がなり終わるまで、この2本の足で立っていなくてはいけない。ここは我慢だ。
 
 欲しいだけ欲しがって、力ずくで取って満足できる人は、本当に幸せな人たちだ。
 
 でも僕にも、争ったりしても、どうしても欲しいものは、あるんだ。



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