未知に満ち溢れた道

 運命論

 ありがちな話になるけれどキミは運命を信じるか?けっこう信じる人はいると思うし、それぞれに考える運命の在り方があると思う。それがまた自分の在り方なのだろう。運命を信じないのもその人の在り方だ。ここを読んでくれている人たちにさらに僕という理解してもらうために僕の運命論を話そうと思う(それはもちろん僕のエゴなのだが)。

 いままで僕はゴールという言葉を使ってきたように、運命は道のようなものと考えている。けれどそれは50M走のような一直線ではなく、複雑に入り組んでいて、とても多い分岐点がある。一瞬一瞬で僕らは選択し、決断し、道を選び抜いて歩いている。今、この瞬間も。道は全てに通じていて、行き止まりはあるけれど、なくなることはない。目標地点は、死でもあって、成長のピークでもあって、とてもフレキシブルに変化しやすい。
 電車や車からの景色に歩いたことがないような道を見たことがあるだろう。一度も歩いたことない道もある。そんな道を見るたびに僕は人それぞれに道があるのだと思う。道は全てに通じていて、あらゆる道に出る可能性があって、そして様々な人々に僕は出会う。曲がり角で会うだけの人もいるし、しばらく一緒に歩く人もいる。その時、いがみ合うこともあれば、仲良く話し合いながら歩くこともある、ときにはまったく無関心なこともあった。そしてしばらく歩いていると、別れてしまったこともあった。

 とどまることはあまりないが、迷うことはある。そんなときは思い切って、こっちだ!とカンみたいなもので決めることもあったが、ほとんどにおいて人に聞いて決めてきた。道を教えてもらったり、ひっぱってもらったり。その先が行き止まりだったり僕の進みたい道でないとわかったら、戻って別の道を進むだけだ。

 荷物は軽いほうがいいが、とても手ぶらで歩いて耐えられる道程ではない。灼熱のときは水が必要だし、勾配な道では丈夫な靴が必要だ。その時々で、状況に合わせて必要な荷物を取捨選択していくだけだが、どうしても捨てることのできない荷物もある。それは僕にとっては記憶であったりする。その時々で加速し、減速する。それが僕の人生なのだ。

 ゴールまでも行き方はわからない。だからペースを調節するのはもちろんなのだが、脚力やメンタル鍛える必要もある。それは広い糸をきれるかどうかを大いに左右することである。
 ときには自分の進んでいる道が自分の道なのか戸惑ってしまうこともある。こんな偏狭に来て自分は大丈夫なのか。行きたいところから実は遠ざかっているのではないか。そんな時は、とりあえず歩くしかない。結局は、自分の行きたいところが自分にさえわかっていないのに人に聞いても正解を得られる確率は甚だ低いわけである。とりあえず歩いて歩いて、そうすれば何か見えるだろう。標識を見つけることもあれば、高台からゴールが見下ろせることもある。

 そして僕は出会うだろう。共にゴールまで離れず歩いてくれる人に。半身とも呼べる人に。

 運命は命を運ぶと書く。運ぶのは自分の命でもあり、共に歩く人に命も預け、命を預かり運ぶのだ。



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