季節を感じる

 秋がくる時、うまく言えないけど、体はちゃんと「代謝」しているような気がする。夏という細胞からムクムクと秋という細胞に変化していく感じがするのだ。
 それは朝夕の涼しい気温とか、キンモクセイの匂いとか、日ごとに縮んでいく日照時間とか、そういうものを感知しているのかと思っていたけど、最近「食べ物」じゃないかとも思う。「秋のたべもの」を食べて、人間は秋の状態に代謝していくのではないかと思う。
 
 たとえばサンマを食べたから。たとえば栗を食べたから。たとえば梨を、キノコを、新米を。食べたことによってカラダは敏感に秋を感じ取って、どんなに理性が、去りゆく夏を惜しもうとも、もうカラダは内部からバキバキと秋の状態に変貌していくのではないだろうか。
 それは「種類」として秋のたべものでなくともいいのだとも思う。シメジでも、ハムでも、タマゴでも。普段食べてるものでも、季節によってそれは微妙に違う。大きさも、味も、水分量もぜんぜん違う。だからカラダの方にどんなに秘密にしていてもバレてしまうのだ。たとえコンビニ食や、毎日変わらぬメニューでも。冷凍食や、輸入品だとしても。
 
 秋に関わらず、カラダは、何で季節を強く感じていられるのだろう。夏、エアコンの強く効いた部屋にいると、そこにいる自分は間違いなく寒いはずなのに、季節が夏であることを無意識のうちにハッキリと自覚している。それが自分だけなのか、人間全般にいえることなのか、生き物全般にいえることなのかは知らない。でもハッキリわかる。室温が低いのが限定された世界だけで、その外は暑い夏なんだということをちゃんと自覚している。そして暑い外の方が、不快指数が高くとも正しく暑くてずっと安心する。
 
 話を最初に戻して。代謝して変化するのだけれど、そういう変化があって、それがきっちり収まるのは秋だけのような気がする。冬から春はぼんやりしていて変化を感じないし、春から夏というのは、なんとなく強引なスピード感があって、カラダはそのスピードに引きずられているような気がする。「夏バテ」という言葉は、そのスピードに疲れて生まれた体感的な言葉じゃないだろうか(熱量を生み出す方が本来エネルギーを使うのだから「冬バテ」こそあり得そうな話なのに)。
 そして秋から冬というのはそんなに変化しない気もする。内的変化は秋のうちに完成して、冬に向けては外的な変化しかあり得ないような気がするのだ。内面が先行して、冬にはもはや上着を重ねていくしかないような、そんなイメージ。だから秋は正しい変化がカラダに訪れて、それにすっぽり身を任せていけるようで安心する。そう感じるのは自分だけかも知れないけど。
 
 結局のところ、秋びいきなのだろう。
 
 とにかく僕は暑い季節よりは寒い方が好きで、それはつまり冷たいよりもあったかいモノの方が好きだから、それを堪能するために寒い季節が好きなのだ。
 
 地面も空気も代謝して秋がくる。そのあいだにいる生き物も軒並み秋に変化していく。もちろん人間も正しく秋に変化していくのである。季節のある国で本当によかった。ずっと夏の国の人は、いつ肉まんやブリトーを食べるんだろう。
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