2006/12/12    つまり温故知新





先日のコウダクミの京都ライブの特集番組で生け花の先生が
「古いものを知らなくては新しいものはできない。
 だから古いものも大切にしなくれはならないのだ。」とおっしゃっていました。

僕は保守的な性格で、古いものの方が信用できて、安心で、変わらず巡ってくるものを愛してしまう。歴史とか、伝統が好き。

だけれど、できるだけ「見たことのない世界をみたい」という気持ちも強くて、モード的な「どんどん新しい」っていうスピードやパワーに惹かれます。
天文学にもそういうスピードやパワーがあって、だから天文学が好きなのかも。
 
文章を書くとき、油断すると古いものの方にアタマやカラダは流れます。
知っていること、できること、やったことのあること。
それは信用できて、安心だから。
だけど、やったことのあるものは、誰かが見たことのあること。
もちろんそれは悪いことじゃないけれど、僕はそれが無意識に行なわれるのが気に入らなくて、意識で制御できるできるだけ、「新しいもの」を捜していたいと思っています。
 
伝統芸能や、工芸を守る人が古い人だと思っている人がいるかもしれませんが、僕が信じていることは、おそらく一流である人は伝統に携わる人でも常に「新しいもの」を意識しているに違いないということです。
活花だけでなく歌舞伎でも、新劇でも、前衛でも、クラシックでもジャズでもテクノでも、同じであると思うのです。
 
「新しい」とは、先の世界を意識すること。
その上で繰り返しの鍛錬を怠らないもの。
それでいて過去を知るもの。
過去を知らない限り、何が新しいかを知ることもできないから。
そして瞬間新しかったものは次の瞬間過去であるから。
 
新しい物語。新しい世界。

2006/09/16    自由研究





 夏休みも終わりが見えてきはじめた。

 僕は「自由」にいつも恋こがれています。
 自由であるという意識をいつも手に入れたいと思って生活しています。
 
 なので、自由の象徴である「夏休み」が大好きです。
 おとなになっても夏休みを失わないで生きていきたいです。
 このまま一生夏休みを獲得し続けたいです。
 
 「自由」とは、わがままに自由自在のことかと言うと、理想的にはそうかもしれませんが、そうも言ってられないことも多々あるので、実際には「いかに自由であると意識して存在していられるか」ということになるのです。
 
 たとえば仕事をしていて、上司さんに「キミキミ、なになにをしたまえ!」と言われて仕事をするとします。
するとそれは自由ではありません。
 言いつけられた仕事をこなしている束縛された人です。
 けれどもし、上司さんに「仕事をください!」と先に言い出せたなら。あるいは「なになにをしましょうか?」と言って仕事をはじめたなら。
 それは自らの意志で始めた仕事です。
 つまり自主的行動=フリーダム。
 
 僕の手に入れたい自由とは、そういうことなのです。
 やらされていない、やりたくてがんばっている生活。
 自己の意志を持って行動し続けられる生活。
 そのためには自己責任に束縛されることすら厭わないのです。
 苦しい時も「でも、これは自分で選んだんだ」と思って納得できたなら、ずっと心は自由のままでいられます。
 
 けれど、自由はときに残酷な自己嫌悪とのたたかいでもあります。
 「独りよがりなのではないか」「あまりに自分中心ではないか」と思い悩むこともあるのです。

 先の例の場合、強制されて働くならば、少なくとも需要を感じることはできますから、必要とされて働くという充実感を得ることは容易いのです。
 でも、自由意志で働く場合、果たして本当に自分の仕事を待っている人はいるのか、これは自分の趣味なんじゃないのか、これでお給金を貰うなんておこがましいのではないか、なんていうことに苦しまなくてはならないのです。
 
 それでも多くの人は自由に今日も恋こがれています。
 自由とはなんなのか。束縛とは何なのか。
 
 夏休みはこれからです。
 今年の自由研究のテーマは「自由とは何なのか」です。
 本当の自由研究のはじまりです。

 アラ、うまいこと言っちゃった?

2006/08/14    袋綴じ





 夜、江國さんの本を読んでいたら、印刷ミスのせいか袋綴じのページがあった。
 きっと「読むな」っていうメッセージだったんだろうな。
 読み終わったあとにこんなに哀しくなるなんて。


 中学生くらいの頃の話をさせて下さい。 最近、よく思い返すんだ。

 寝る瞬間がとても怖かった。 お化けとか幽霊とかではなく、人が怖かった。
 眠りに落ちた瞬間、両親が僕を殺しに来るんじゃないかと思って怖かった。閉じたドアに誰かが入ったらわかるように、紙切れを挟んだりもしていた。 起きたあと、ドアに挟んだ紙はそのまま残っていた。
 とても残念に思った。
 いっそ、寝たまま、死んでいたらいいのに。

 交差点で横断歩道を渡る時や駅のホームに電車が入ってくる時は期待した。
 車が信号無視で突っ込んでくれたら、 誰かが僕の背中を押して線路の上に落ちたら。
 その瞬間が杞憂に過ぎたとき、とても安心した。
 けれど、落胆もした。

 夜、本を読んでいてふと寝るタイミングを逸した時、自分の部屋から外をみた。
 外に見える家の窓に明かりが点いていないと不安になった。
 表の通りに車が一台も走っていないと不安になった。
 この世界には誰もいないんじゃないか。 それでも、いつもどおり朝が来て、新聞配達のバイクの音が聞こえ出す。
 そうか、僕は一人じゃなかったか。と安心した。

 血が身体にまわるなくなると死ぬと聞いて 輪ゴムを手にきつく巻いて寝たこともあった。
 けれど翌朝には普通に目が覚めた。 ただ、手に血が通っていなくて感覚がなくなっただけで、それもしばらくするといつも通りになった。
 そのことは今でも自殺未遂ではないと思う。
 ただ死を待っていて、なかなか来ないから迎えに行ったくらいのものだと思う。


 最近の話もさせて下さい。


 BUMP OF CHICKENの「オンリー・ロンリー・グローリー」と SMAPの「世界に一つだけの花」を連続して聞いた。
 「only one」という言葉に非常に不快感を感じた。
 嫌だ。オンリーなんて。

 夜中にベランダに出て、向いのマンションに全然明かりが点いていないのを見た。
 少なくとも僕が今見えている世界で意識があるのは僕だけなんだなと思うとなぜか安心した。

 こんな気分でも翌朝は出かけなくてはならない。 終戦記念として歌わなくてはならない。
 今日ほど、第二次世界大戦を恨めしく思う日はないだろう。
 僕はなんて自分勝手だ。 本当に。中学生の頃からちっとも変わっていない。

 自己矛盾。
 一人がいいのか、みんなとがいいのか。 死にたいのか、生きたいのか。
 自己矛盾。

 辛いものが少し食べれるようになってきた。
 食べているものの味が思い出せなくなってきた。
 辛いものを食べれるようになるということは、味覚が鈍くなるということらしい。
 そういえばコーヒーをブラックで飲めるようになってきた。
 紅茶には砂糖もミルクも入れたくない。

 ある男の子が、ある人に「逃げるなよ。」と言っていたけれども、
 僕は決して逃げることは悪いことじゃないと思う。


 大人になるということは感じなくなることなのかもしれない。
 物事を客観的に捉えるようになれることは、自分の弱さに耐えれることなのかもしれない。
 「痛くても泣いちゃだめ。もうお兄さんなんだから。」
 痛みに耐えれるようになるということが強くなることなら、それも大人になることなのかもしれない。

 ストレスを感じないことが大人なのかもしれない。
 苦いコーヒーを飲めるようになるのが大人なのかもしれない。
 死を恐れなくなるのが大人なのかもしれない。

 周りの人たちは「大人なんかになりたくない」とよく言う。 「大人ってなんだろうな」とも言う。
 ピーターパンシンドロームとかアダルトチルドレンという単語もよく聞く。

 じゃあ子どものままでいいのかな。

 僕も「大人になりたくない」と思っていた。 口にすると、どの友も「それでいいんだよ。」と言ってくれた。
 赦されると安心するけれど、なんだか違和感だけが付きまとった。

 2年前、浪人していた友が電話で受験勉強が「つらい」と嘆いていた時、
 僕は「やめたらいい。」と言った。
 彼は「楽になる。」と言った。
 本当は僕が楽になりたかったのかもしれない。
 彼はそして受験勉強を再開し、大学へ行った。
 結局、僕は強制させたのか。

 本当に「やめたらいい。」と思うなら、強要させればよかったんだ。


 痛みから逃れられるなら、大人になりたいかもしれない。
 大人になることでしか逃げられないなら。


 逃げることは簡単でも、逃げ続けることは難しいんだよなぁ。
 鬱なんかじゃない。ただ逃げたくても逃げれないだけ。


 赦されることがこんなにも閉塞感を感じるなんて知らなかったんだ。

 読まなかったら良かった。

 全てが袋綴じなら良かった。

2006/08/12     イデアの台所





 「イデアの円」というものがある。「在る」というか…。およそその辺に出回っている「円形のものもの」は「円」ではない。円に限りなく近いが円ではない。イデアの円とは、完全な円だ。だけど、だから、イデアの円は存在しえない。
 
 コンパスで、くるんと円を描いてみる。定義の通りに、中心点から均一の距離を保った、円。…のようなものを。
 鉛筆で紙に描いた円は、拡大してみれば一目瞭然、本当は凸凹していて、ぜんぜん均一などではない。パソコンでつくって画面で観てみても、それを印刷したって、これは本当の円なんかじゃない。球状の物体をつくっても、拡大すればムラのある凸凹である。地球が遠くから観ると円に見えても実際は山あり谷あり、であるのと同じだ(さらに地球は遠心力分だけ楕円になっている)。
 
 本当の円は理論の中にだけあって、人間にはつくったりできないのだ。物理的に、円をつくることはたぶん無理なのだ。
 
 そんな定義上の円を「イデアの円」という。理解できても実在しえない、近くて遠い切ない理想を抱えた存在。
 
 そういう、「正しいけど在りえない」とか「在って欲しいけどない」とか、そういうものがけっこう好きだ。片思いみたいな感じ。
 だから僕はよく、「理論上」というものについて考えたりする。定義のないものに線引きをして、それを切ながったりする。
 
 一昨日、キッチンを徹底的に磨いた。台所用洗剤でガスコンロを磨き、壁を磨き、レンジを磨き、食器を塩素で殺菌し、床も磨き、仕上げに全てに薄めた塩素を伸ばして拭き取った。僕は春が来て、キッチンに好ましくない客がくることを怖れている。本当の意味での啓蟄ってやつだ。
 
 清潔とは、つまり「死滅」なのだと思う。カビない、腐らない世界とは、生物のいない世界のことだ。生物がなく、常に低温で、変化をもたらす兆しもない。「風の谷のナウシカ」の酸の海のように、生き物がいない代わりに瘴気もない。その中で僕ひとりが生きる、それが理想のキッチンなのだ。
 しかし、実際に細菌、微生物がゼロになることは不可能に近い。そもそも矛盾を伴うのは、キッチン自体は「死滅」を理想としていても、扱う食品自体が限りなく新鮮な方がいい、つまり「生きている状態」に近いほどよいのだ。だいたい僕が生物である以上、僕自身に細菌やら微生物やらが付いて回っているのだ。しかも体内にはある程度、菌やらなにやらが活動していた方がいいのだ。どうしようもない。「生活」は生物的であり、キッチンが生活のための場所である限り、死滅の世界は訪れない。つまりイデアの達成のためには自分すら存在してはいけない。
 
 病院の無菌室のようなキッチン。生物のいないキッチン。生物はいないけれど、限りなくもともと生物だった状態に近い食品が詰まっているキッチン。死滅の衛生。
 
 イデアのキッチンは少し恐ろしいくらいだ。けれどそこがいい。理想郷は限りなく遠く、僕は安心して切ない気持ちで台所に立っていられる。


2006/07/13     なにをしてるんだ



 なにをしてるんだ。    ・・・と自問することはみんなはあるだろうか。

 なぜ、こんなところにいるんだ?とか、
 なぜこの忙しいのに今さらマンガに夢中になってるんだ?とか、
 なぜこの忙しいのにマンガに夢中になって限定版まで買ってしまうんだ、とか、
 なぜこの忙しいのに買ってしまった限定版のストラップをケータイに(フィクションです)。  

 そもそも10年前、5年前、いや1年前、 自分の今置かれている状況を予測しただろうか?
 自分がここにいること、 ここにいて考えていること、 ここにいて、やらねばならないことなどなど。 わからないことばっかりだ。  

 もともと、そんなに苦悩する方ではない、・・・と思う。 そんなになにかを迷って人生の節目を決めたことがない。
 いつでも流れる方向がハッキリしていて、そこに向かっている気がする。
 悩んでいても、たいていはフェイクで、 ほとんどの場合、「苦悩」は「手段」や「演出」だった。

 ただ、その流れは思ったより少し速かったりしたのかも知れない。 いつでも岸に戻れると思っていたら潮の流れが速くて、気付いたら沖に出ていたのかも知れない。 「もう戻れないかも知れない」、そう思うと怖くなる。  
 もっと他のことをしていたら「今」はまた違った顔を見せている。 誰でもそんなことを考えるだろう。
 それは例えば後悔だけれど、「そうじゃなくてよかった」という場合もある。
 どこのどんな選択肢が功を奏したかは知らないけれど、「今」が、実在する「今」で本当によかったということも、ある。
 僕自身、日々に不満はなくて、だから実在する「今」を、無限の選択肢の中から選び抜いたことには満足するべきなのだ。

 ただ。    

 なにをしているんだ?

   という自問は止まない。

 人間は不変でないということを、もうとっくに知っているからだ。
 今浮かんでいる「沖」を泳ぎ続けて行く自信や能力や、 なにより「興味」を、 いつか自分がポカンと失ってしまったら、僕はこの海の上に浮かんでいられるのだろうか。

 これだけの文章を書くのに1時間もかかってしまうのか。 最近、思いを言葉に出来ない。 もともと上手く言葉を選べる人間ではないけれど、 もともと伝える思いなんてないのかもしれないけれど、
 遠くに行ってしまうあいつに、
 悩んでるあの子に、
 僕を必要をしている人に、 大切なことを伝えたいのに。

 街で私服に着ぐるみを来ている若者たちや、
 路上で唄う者たちや、
 駅で酔っぱらっているおじさんや、
 ワイドショーを見ているおばさんや、
 泣いている赤ん坊や
 買い物しているおばあさんも、
 泳いでいるんだ。

 すべて、泳いでいる途中。

 いつかはどこかにつくはずなのに。
 

2006/06/27     検討外れ



【友達と味方】
 ・味方は、言う事なすことにその通りだと同意して行動してくれる人。
 ・友達は、言う事なすことに自分の考えで時に「違う」とも言ってくれる人。

 味方はいらんのです。 友達が欲しいのです。
 味方はすぐに出来るのです。嘘をつくのが得意ならすぐに。
 でも、友達はすぐに出来んのです。嘘をつくのが癖ならば特に。

 僕はあなたの友達ですか? それで、良いんですかね?
 そう、聞きたい人はたくさんいるんだ。

 騙されて嘘つかれて、居心地がいいから、この人は自分に優しくしてくれるから。
 という理由で傍にいられたとして、後で倍落ち込んだとして、一体誰に迷惑かけると思ってる?
 親、心配してくれてた友達、そんな人全員に同意を求めるもクソもあったもんじゃない。
 騙す方も騙す方だが、まんまと騙されて危害与えて悪いことは悪かったんだと叱られるほうの方が、嘘つかれてそれに甘ったれさせて甘えてもらうのに優越感感じてるよりずっといいってことだ。
 世の中には、お近づきにならない方がいい人がいる。
 自分がどれだけ嘘ついて誤魔化していた事棚に上げて、他人の事を当たり前のように責めて当然、そのお仲間というか味方使って言うのも当然。
 自分は何にも心は痛めてないのに、痛い痛いと回りに言いふらす。
 僕が心配で面倒見てた気持ちはただの優越感だろうと気付いたし、そういう風に嘘をつきとおしていかないと生きていけないような人とは僕にはお近づきにならない方が良いんだろう。

 ところであなたには、何も包み隠さずに言えるような友達がいるんですか? 包み隠さずに。
 或いは相手が黙っていてもそれを見抜けるような。
 聞いてくれている裏の顔でどんな顔をしているか、考えた事はありますか。

思いつく限りの中でも恐らく3本の指に入る、僕の大切な友達は、味方なんかじゃないよ、そいつは。
検討外れだ。
 嘘つきながらでも同意してほしかったら、キャバクラにでも行ってくれば?ちょうどいいのがたくさんいるじゃないですか。うなずいて酒ついでくれる女が。

2006/06/15     適応




春休みに東京に行って、旧友たちと話して感じたことは、
「変わったなぁ」ということ。
友ではなく、僕が。

今の僕は、模倣のコピーのような気もしてくる。明らかに前と感性とか感覚とか五感とかが狂っているのを感じる。
春の終わり、夏の始まり、空の色。
だけど、コピーがオリジナルになることを信じている。
何を言っているのか、と思った人は答えは簡単。


人格は死ぬ事が出来るんですよ。
逆を言えば殺す事も出来る。それはもう簡単にね。
科学的にそんなもん病気でも何でもねーと言われてもいる病気。
科学でどうにかなるんだったらどうにかなってほしいさ。明らかに心理学の問題でしょ。
例えば、多重人格障害であれば、
カウンセラーが一人一人を呼び出し、記憶を穿り出して、そうして「自殺」させていくのです。
そうして残るのが主人格。それが、この病気の「治しかた」。
間違って主人格を殺してしまうと大変な事になります。

なんだか、それはいけないような気もするけれども、
じゃあどうしたらいいんだ?と言われたらそれしかないような気もするし、そのへんに自分の限界を感じてしまうわけですよ。

まぁ、何を言いたいのかっていうと、
何が正しいのか全然わからん!ってこと

科学か?宗教か?
俺か?お前か?

正しいことなんて何にもないのか?
そんなの悲しすぎる。

何を信じて、何に縋って、日々をのうのうと生きていけばよいのか。

落ちる。

2006/06/09     RE:すばらしい日々




僕らははなればなれ たまに会っても時間が無い
いっしょにいたいけれど とにかく時間が足りない
人がいないところに行こう 休みがとれたら
いつの間にかぼくらも 若いつもりが歳を取った
暗い話にばかり やたら詳しくなったもんだ
それぞれ二人忙しく汗かいて

すばらしい日々だ 力あふれ 全てを捨ててぼくは生きてる
きみは僕を忘れるから その頃にはすぐにきみに会いにいける

なつかしい歌も笑い顔も 全てを捨ててぼくは生きてる
それでもきみを思い出せば そんな時は何もせずに眠る眠る
朝も夜も歌いながら 時々はぼんやり考える


きみはぼくを忘れるから そうすればもうすぐにきみに会いにいける



作詞作曲:奥田民生。そして、ユニコーン。


懐かしい歌も、懐かしい笑い顔も、全て捨てちゃったみたいに生きています。
忙しく汗かくようにどたばたと毎日生きてます。
顔も声も忘れてしまったあなたを思い出したときは、なんにもしないで窓開けて、少し空を見て寝てしまいます。
若いつもりが気がついたら歳を取ってしまっていました。
飲んでいて、ふと暗い話をしてしまったら後悔してしまいます。

理性1、理性2、理性3。
感情1、感情2、感情3。
そういうものが交錯しながら、四の五のとくだをまくけれど、
結局はやるかやらないかの二択なんだよ。とか。

朝も夜も、何かの言葉の上で踊って、でも時々は考えます。
生きることは死ぬまでの暇つぶしなのかなとか、誰かに傷つけられたからって誰かを傷つけていい道理が無いんだよ。とか、逃げる事がいいことではない。けど戦ってばっかりだったらつぶれるよ。とか。去った人にごめんねとありがとうとかを勝手に心の中で言ってみたりとか。


あんた大馬鹿よ。
本当に馬鹿なんだよ。


とか言われたときに最後に笑ってやるんだよ?って思ったりとか、いいじゃないの、私が馬鹿みてあのひとが笑われるに済むんだったら。って思ったりとか。だから馬鹿だって言うんだよ!って怒鳴られて胃が痛いよ?って笑ったりとか。そうして、iPodに入ったこの曲を聴いて。そしたらなんか設定で何故か1曲リピートだったんだ。


僕を忘れてくれるのなら いつかどこかで会えるでしょうね。
そんときの私はきっと、あなたの中の忘れてしまった私とは違う…、えーっと。


そう、思った人がなんかたくさんいたんです。
期待持たせて悪かった。僕もただのその辺の、いや、もっと酷いやつだったね。と。
今、少し思ってすごく怖かった。

俺を、私を、忘れてくれたら、あなたに会いたいよ?

そう、僕に思ってくれる人は一体、何人くらいいるのかな。
何人くらい、いるんだろう。…そもそも、いてくれているんかな。


2006/03/19     安らぎの場所



 最近、精神的に不安定だ。

 安定という字は安らぎ定まると書く。つまり不安定とは、のんびりとある場所にいられないこと。
 以前はその安定性を求めるのに本を読んでいた。
 本を読んでいる時というのは、同じように全ての現実的な感覚から浮いた、特別な感覚の中にあるのだ。
 「本を読む」という行為はもちろん視覚を駆使して行なう。
 小説を読んでいるとき、「文字」が書き連ねられ「文章」となった「紙」を、目が追って脳が「物語」を理解する。でも、物語に集中しているとき、果たして僕は「文字」や「紙」を意識するだろうか。瞬間、僕はおそらく文字や紙を飛び越えて「物語」だけを理解している。
 しかし、映画のようにあるがままの映像や音声を受けているのとは違う。確かに映像的ななにか、音像的ななにかを感じ取っているような気もする。でもやっぱりそれは実際に記憶しているような「絵」や「音」ではない。この世にはない、なにか五感と違う世界のイメージなのだ。その「なにか」は本の中にしかない。だから読書は特別なのだとも言える。
 
 目でも耳でも鼻でも舌でも肌でもない感覚。

 そしてその「なにか」の感覚はとても居心地が良かった。

 ところが最近は、本を読んでいると、もちろんトリップすることはできるのだが、それ以上に「考える」ことが頭をもたげてくる。
 現実ってなんだ?
 僕らがこうして影響を受けた気になって影響を与えた気になってるこの世界は、確かに実際、自分の目で観ないとわからない。観たことによってそこに初めて世界が生まれる。
 けれど、人の数だけ世界があるだろう?そして自分の世界の中に人がいる。ってことは人の世界も自分の世界であって、新しく世界が生まれる余地なんかないんじゃないか?

 死ぬってどこから?
 意識を失う=死ぬではないとは思うけれど、そうすると自分では結局、死を体感できない。周りは自分をどのラインで死ぬと判断するんだろう。
 脳死は死か。髪の毛が生きているのに、その人は死んでしまっているのか。

  読書の瞬間は、どこでもない場所のどこでもない景色を、どこにもない感覚で感じ取っているのに、本を読んだあとは変な風にシーンを記憶していたりする。
 「あのシーンよかったなあ、今度は声に出して読もう」なんて思い出すとき、そのページがどのへんにあって、その文字がページのどっち側のどこらへんにあったのかなんていうことを妙に覚えているのだ。読んでいる時は「文字」として物語をカタチづくったりしないくせに、脳にはちゃんと「文字」が記憶されてる。脳ってすごいものだ。このごろ、「意識」という部分と全然別のところで脳が仕事をしてることに気づいてびっくりする。

 でも、読書をしながら考えてしまうと、もうダメだ。本の内容なんか頭に入ってこない。

 自分は果たして何を得たいのか。
 自分は何をしたいのか。
 幸せになるって本当にいいことなのか。

 したいことをして熱中してるときこそが一番、安らぐことができるのに。

 

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2006/02/20     雨の日と月曜日





 今日は月曜日。外は雨降っている。

 特にすることがないと思わず、どんよりとした重たいものが僕を襲ってくる。考えをまとめるために、書くということが多いけれど、しゃべることもしばしばある。

 そしてふとひとりごとを言ってから、「ああ,老けたなぁ」っと思う。まだまだ年齢的には老けるには早いと言われる年齢だけれど、僕の心はもう何十年も過ぎ去ったみたいに荒野が広がっている。

 ときにはこんなことはお終いにしてしまいたくなる。だって何かしっくり来るものがないみたいなんだ。全ての情熱を僕は一つのものに注ぎたくないし、いろんなことに注いでいたい。途中からなんだからわからなくなってくることもあるけれど。

 時をもてあましていて、ただこうやってしかめ面をするだけ。雨の日と月曜日はやっぱりいつも気が塞いでしまう

 本当は悪いことなんてものは何もない。それは分かってる。ただ居場所がないような気がするんだ。家に帰っても寝るだけ。荷物を置くだけ。長期宿泊してる旅行客みたいだ。

 なんか孤独なピエロみたいに歩き回っている。

 笑わないで欲しいけど、やっぱり最後に行きつくのはいつも君のこと。・・・やっぱり笑ってもいいや。
 誰かが僕を愛してくれる人がいるのがわかるのはいいことじゃないかな。こりゃ笑ってもいいよ。おかしいけど他にすることがないんだから。
 僕を愛してくれる人を見つけに走ることしか。

 僕の想いは浮かんでは消える。口にする暇もないし、言葉にするまでもない。
 何のことだか僕も君たちはわかっているのだろう?

 時を持て余す。死ぬまでの時間を潰すためだけこうやって悩んでただしかめ面をする。


Carpenntarsは大好きな歌手の一つ。
思いを重ねてて原型がとどまらないくらい意訳してみたら、外は雨が止んでいた。

Talkin' to myself and feelin' old
Sometimes I'd like to quit
Nothing ever seems to fit
Hangin' around
Nothing to do but frown
Rainy Days and Mondays always get me down.
Walkin' around
Some kind of lonely clown
Rainy Days and Mondays always get me down
Funny but it seems I always wind up here with you
Nice to know somebody loves me
Funny but it seems that it's the only thing to do
Run and find the one who loves me.
What I feel has come and gone before
No need to talk it out
We know what it's all about
Hangin' around
Nothing to do but frown
Rainy Days and Mondays always get me down

2006/02/16     もし夢で逢えたら




 夢を見る。

 夢は深層心理を象徴するというけれど、僕は心理学を専攻しながらそうはあまり思わない。まぁ時にはそんなこともあるんじゃないの?くらいにしか思わない。

 ラブホテルの浴室で浮かんで死ぬ女の夢を見た。赤く染まったバブルバスの泡もほとんど消えかけて、青白い照明と赤く染まったバブルバスの泡の色で紫にほんのり染まった仲で、死んでいる知らない女。決していい死に方ではないだおるけれど、妙にきれいで美しくて、そしてとても血で染まった赤以外のものは全て人工物に溢れた色に染められて、まるで真っ裸のしたいでも光とミスを帯びているような感じで、どうせ死ぬならこんな死に方もいい。と、夢の中だと分かってはいたけれど、そう思った。

 まぁ、男の僕には無理だが。

 夢の中で、自分にあったこともある。ないですかね、そんな経験。この前昼に見た。寝ていたかどうかわからないけれど。

 喫茶店のテーブルの向かい側にはもう一人の自分が座っている。まるで、自分の頭の真後ろにある何かを見つめているような、言うなれば貫通するような目つきで僕を見てくる。

 「自分のこと、よく分かっていてここにいるんだよね?すごく立派じゃん。素敵なことだね。おまえは自分のことをちゃんと分かってる。頼もしいことだよ、それって。」

 「誰かに、慕われて、尊敬されて、信頼されてる?…そう。何人覚えてる?3人?それとも5人?あぁ、そうおう、おれ、偶数嫌いなんだよね。簡単に割り切れちゃうのって好きじゃないんだよ。おっと、関係なかったな。その信頼って本物?もう何も言わなくていいよ。おれには分かっているんだから。」

 やけに濃い紅茶にミルクを入れて渦が出来るのをずっと見つめているもう一人の自分。

 僕は紅茶にミルクを入れない。子どもっぽく見られるのが嫌だからだ。けれどそいつはそんなことはおかまいなしに紅茶にミルクを注ぎだしている

 確実に僕は萎縮している、圧倒されてる。もう一人の自分に。

 「もし、おまえが死んじゃったら、お墓に誰が花を供えてくれるだろうね…。おまえの事が好きだった人かな。それとも死んでしまえと思ってた人かもしれないね…。敵なのか、味方なのか、そrwすら分からない人があんたの周りには多すぎる。何だよ、その目。…自惚れ?大丈夫だよ、自惚れなんかおれは気にしないよ。人は自惚れてないとろくに他人と話なんか出来ないしね。わかってるだろ?そんな事。

 紅茶の中のミルクがどんどんどんどん広がって、最後にはカップ一面に広がったのを、もう一人の自分がぐるぐるとスプーンでかき混ぜて、また僕を見てくる。貫通するような目で。

 「おまえは、それが嫌だから他人と適当な距離を置いて死のうとか思ってる。いなくなってしまえって思ってる。そう、言わなくたって分かってる。そう、そうなんだよね。おまえがいなくなれば、ここも崩れて好きな場所も崩れて、おれも、みんなみんななくなってしまう。消えてしまう、それでいいんだろ。それで十なんだろ。それが目的なんだろ。

 
それでお前は幸せなんだろ?」
 
 何か言おうとしたけれど、何も言えない。何も言葉を発することのなかった口の中はカラカラに乾いていた。


 不愉快な夢だ…と思ったけれど、そのもう一人の自分にまた会いたい気がした。

 まるで悪魔のような、天使のような、存在だったような気がする。自分の感情が持っている何かを平気で抉り出そうとする、自分によく似たそいつと戦う来はまるでないけれど、その不愉快さに僕が逆に魅力を感じてしまったのかもしれない。魅入られた、ってやつかもしれない。

 死ぬ気はまるでないけれど。

 幸せって何だ…?壊すことで出来るものなのか…?


 
作り出す、ものだとばかり思っていた。けれど、あの目は狂ったように真剣だった。

 嘘をついている目ではない。
 あれも僕だったのかもしれない。

2006/02/8     揺れる街





「少し寂しげなこの街並に、街灯がアスファルトを綺麗に照らす。
光が流れるようなヘッドライトにそっと吹き抜ける風も迷子になる。

走る。

片道一車線しかない通りの風を肩にひっかけ、きっかけのスタートキーを回す事を僕は知った。
行く先には険しい道のり。でもたまにはそんな道もいい。
もちろん今の状況には決して満足してないけれど、ハンドルを握る。

誰かいるだろうか、僕の助手席に。
かけがえのない思いをトランクいっぱいに詰め込んで、ひたすら目指す目的地。

カーステレオからのメロディのボリュームをゼロにする。
聞こえるようになった街の音に複雑な気持ち抑えきれず、目の前の道も爽快できない。

さりげなく言った、「この街で心の空きを埋めたいんだ」って。
大都会を目指し走り出し、帰りたい故郷を思い出し、全てが暖かいこの街を離れてなぜか全てが戦いの街で。

変わり、巡る四季。

いま志す志気が一気に秩序を失ったまま知らず知らずに変わってしまったなら、優しく手を差し伸べてやるから。
友の友の名前さえわかる綺麗で小さなあの街は、きっとずっと待ち続ける。
いつでも心の支えとなる。

今日も君の噂を耳にした。
笑ってる顔ももう思い出せそうにない。
それならばその笑顔に、会える日をずっと願おう。

小さな頃の思い出の1ページ。
生きた証。
それらをここに残したいし、揺れる街を進もう。

全てを明日に託し、がむしゃらに走り続けたいね。
抱いた夢を今日も夢で抱いた。
気持ちを二人で白いノートに書いていた。 」

 ちょうど1ヶ月前に東京へ成人式で行ったとき、書いたものを見つけた。
 京都へ来たのは親への反発以外にも都会ではない帰るところへの強い憧れもあったんだろうなぁ。
どこへ行っても思い出ばかりのあの街。いい思い出もあるけれど、つらい思い出の方が多かった。京都の思い出はいい思い出ばかりにしていきたい。

 僕の故郷は京都だ。

2006/02/1     遊ぶライフ



 

歳をとった。

 まだティーンエイジャーだけれどこの前、妹の誕生日で思った。この前まで小学生な気がしてたガキんちょが高校生になって、いっちょ前になっているのを見ると自覚してしまう。もっと遊んでおけばよかったと年配の人がいう中、この歳になった僕らは思えばなにして遊んでるか?とふと考えてしまう。

 今、ドロ警(これは地域によって名称が違うそうな?)なんてやれば、5分もせずに息が切れてえらい事になって、それでも無理してやったら、それこそ頭脳戦になるになってしまうのは必至なわけで。しかもほぼ大人という世代なわけで選ぶ場所も違うだろう。環状線で鬼ごっこみたいな。出来れば大学とかでやりたい。

 文学部校舎の前の床にわざと落とした、ホシの一人がいつも吸っている珍しい銘柄のヤニを発見。

 「チキショウ、逃げられた!!! 第3班はB棟地下で待機!!」
 「了解。こっちは未だ人気無いので、張り込み継続致します」
 「あ、ちょっと待てー?第C班が何か言ってる!」
 「あーあー、聞こえますか?法学部校舎の食堂でホシを一名発見しました!!!
  めっさ普通にうどん食ってますが、今逮捕しますか?出口は3つ…ありますね」
 「堂々としたヤツだな。食い終わってからの方が逃げ足が遅くなるだろうから、
  せめてたんまり食わせてやれ。今増援を送る」
 「了解。通信終わり」

 ザーザー、ブツリ。

 「…ってうどん食い終わった途端に踏み切ったところで逃げたら吐かないかな、うどん…」

 楽しそうだ。
 しかも警察役の人は必ずくたびれたコート着用。泥棒役の人は銀のアタッシュケース持参で何かの運び屋である事。警察はお互いを愛称で呼び合う(例、男の場合「まっさん」女の場合「○○君」)、泥棒はコードネームで呼び合う事。で、散々遊びまくった後に安い飲み屋に行って「ツカレター!オッカレー!!かんぱぁい!」などとやるわけ。最後にそこに行き着いてしまう、というのが20代なのであって。
 しかし、大学に入ってからとみに思うようになったんだけど、何故にいつも乾杯の音頭が「オツカレー!」なんだか。

 例えばフットサルをやった後に何故にみんな普通に飲みに行ってしまうのか。
 「オッカレー」ってそこで美味しくビール飲んでたら運動した意味無いだろうが。それでえぇんか?まぁ、えぇやろ。とか言い ながらバカスカと食って飲んでダラダラしてしまうわけですよ。

 そういえば、こないだ人生ゲームをやった。ダイワハウスのCMでもやってる。
 人生ゲームもややしょっぱめのにしたらいいのに。
 マス目には

”子供がケータイを使いすぎた!”
”上司とそりがあわず仕事を辞める”
”子供の時に持っていたおもちゃがプレミアモノに!”
”保険会社が破綻!持っている保険証券を全て返却する”
”子どもがひきこもりに”
”両親が死亡。莫大な遺産(OR借金)を引き継ぐ”
”付き合ってた子が妊娠する、結婚コースか独身コースを選ぶ”

 というのが並ばせる。素敵だ。普通のヤツより、絶対美味しい。
 やりたいね、大人オンリーで、しかも4人くらいで。
 子供はいちゃいけない。その場の空気がしおしおとしていく様が目に浮かぶ。素敵な風景だ。子供こさえた途端に「あーあ。育児大変だぞー?つーかもう乗せられないやん。いい加減ワンボックスカー買えよ」とかいう台詞とか「オイオイオイー、家買えだって。俺まだローン30年残ってんだけど!って思い出しちゃったよぉー」とかそういう台詞連発のしょっぱい現場。

「ビール、つまみてんこ盛りの会場で大人がやる、20歳以下お断りの人生ゲーム」

 遊びは遊び。金だってゲームを皆でお金出し合って買うだけだけども、だ。
 それでも、だ。
 僕は銀行役に徹するからよ!! あ、それ自分で言っててずるかった。

 遊ぼう、と言って遊ぶ時は真剣にやりませんか。いや、本当マジな話。
 飲みに行く、カラオケに行く、なんて遊びのうちに入りゃしませんよ、もう。
 いかに金をかけないで「遊ぶ」か。いい年こいて。と言われないような事を考え付いてしまうような遊び心を忘れないヲトナってやつに僕はなりたいけんね!

 妄想終了。

2006/01/24    無声慟哭





 『逃亡者たち』

 テスト勉強の一環、臨床社会心理学の教科書はそう名乗った。そしてそいつはに鬱(うつ)病の診断基準を語る。

『@抑うつ気分
A活動における興味、喜びの著しい減退
B著しい体重減少、食欲減退あるいは体重増加
C不眠、睡眠過多
D精神運動性の焦燥や制止
E易疲労性あるいは気力の減退
F無価値感や過剰な罪悪感
G思考力や集中力の減退あるいは決断不能
H死についての反復的な思考、自殺念慮、自殺企図、自殺の計画
以上の大うつ病エピソードの5つ以上が2週間以上持続すること。』

 このうちの5つあるいは6つがここ数年持続している僕はうつ病のようだ。そして教科書に僕は現実からの逃亡者のレッテルを貼られた。

 現実は確かにつらい。世の中は不条理に満ち溢れている。何が正しいのかわからないし、誰が信じられるかわからない。矛盾や疑念、失望の毎日だ。思わず目を背けて、一人きりで閉じこもっていたい。もしそれができていたら僕はもしかしたらただのひきこもりになれたかもしれない。
 けれど、ひきこもろうとする時に救いの手をくれる人々がいる。そんな人たちを好きでありたいが為に、自分の脳みそが生きるためのみに選んだものが僕にとってはうつ病だった。いろいろあったけど、それでも僕は今日もきっぱりと元気です。目の前の人が笑ってくれたら僕も嬉しい。財産もなけりゃ結婚もしていない。友達といつも一緒。そんな明るい、だけども鬱ライフ。

   教科書を読んでから精神病者となってしまった僕が言うには、今や6人に1人がうつ病やうつっぽい病気にかかってたりするらしいわけで、頭がショートしそうになっているのなら歯医者に行くように病院に行け、と思うわけで、でもお医者さんを選ばないとひどい目にあったりするもんで。薬に依存しないように少量の薬で様子を見るけど、それも効かないってんじゃ意味も無い。ってことで病院には絶対行かない。

 確かに外に出るのが億劫だ、とか新宿や渋谷駅のコンコースとかに立つとぐらぐらと頭が揺れるが、その程度。昔は自分の意思とは関係なく「死なねばならぬホトトギス」状態だった事もあった。どうした、おれ。

 で。病がなしてしまったとしか言いようが無い過去にやらかした行為を反芻しては、それを白昼夢に見てうなされる事も多々あるし、逆に他人からもらった優しさを思い出してはうなされる事もある。そういう、うつ病患者が持つジレンマとただ淡々と戦っている。しかし、病名がついているということは、そしてその僕のみに作られたわけでもない。いつか気付かぬうちに良くなるだろう。今までの人生のツケが回っただけだ。何も恥じる事でも隠す事でも何でもない。助けてくれ、助けてくれ、と言い出したらヤバいと思うけど今の僕にはその気持ちも無い。おれは生きるよ、生きる、って事を真剣に考えている時点でもうこの病にどっぷりと浸かっているのだろうけど、それでも構うもんか。おれは生きるよ。

 「頑張れよ」とか「大丈夫」とか「幸せになれるよ」という言葉をかけてくれる人たちがいる。僕はそんな優しい言葉を聞きながら「でも、それは重たいだろう?」と思いながらヤニを吹かす。俺の何が分かるんだ、と言われたら終わりだろうよ。という気持ちと共に。涙と共に流れるものでもなく、ただただ気が狂っていく自分の事を思い返した。

 好きだと言われてひとはなんで「ありがとう」って言うんだろう。
 何故にそれ以上の言葉が出ないんだろう。そして僕が言ったことが無いような気がするのは何故だろう。
 好きだという他人の気持ちは、往々にして重たくて往々にして裏切られる可能性があって、また言った本人さえも責任がもてないだろうよ、と考えて何年経っただろう。おおよそにして5年という年月を過ぎても僕の気持ちは鍵がかかったように止まったまま、ぴたりと動こうとはしない。僕が口が上手くて素晴らしい言葉を吐き出せる人間でも、その人の前では無力だろう。なにしろ、好きな人の前では言葉は出ないから。もしかしたら涙だけは出るかもしれない。

 手に入らないからか、と考えた事もあった。
 彼女がいたらそれでえぇのか、と考えた事もあった。
 これは単なる執着か?と考えた事もあった。
 きれい事を言うな、ともう一人の私が叫ぶ。そしてスイッチが入る。
 淡々と生きる為に、病み続ける私に塗る薬はどこだ。
 時が流してくれなかったら何が流してくれるんだ、涙か?

 誰も誰かの代わりになんかならないというのは、言葉で知ってたつもりだったけれど、いざ実践してみてそれもよく分かった。それでも無理だったんだ、しかも僕は「違う」と心の中でショートした上で気さえ狂ってしまったんだ。仕方ないだろうが。

 この僕につける薬はどうやら無いらしい。
 何をつけても、何を飲んでも結局治りはしない病。
 いっそ墓まで持っていこうか、とまで思っているほど。

 ただ、少しだけ思った。
 僕が僕でいる為にしていることは、きっといつか僕の前から消えてなくなると思う。夢にうなされる事も、白昼の中に沈む事も、きっと無くなる。僕は、きっとこういうのを背負って無いと、文章も無く、ひとに会うことも無く、そして言の葉使いになろうとも思わなかったと思う。感謝してる。全ては僕にはね返った。ここに来た人にも、ここに来ていない人にも、そして、みんなにも感謝してる。この気持ちは決してきれい事じゃない。本音だ、本音だ。どこまでも、どこまでも。会わせてくれてありがとう。書かせてくれてありがとう。

 すごく、優しいひとがかかる病気なんだ、と聞いたことがある。
 弱いから、というわけではなく、他人の事を嫌いたくなくて、でもどうしようもなくて、他人の中の自分が怖くなって、そうして風邪をこじらすように、かかってしまうものなんだと。

 辛いんだって事を、自覚して。
 辛いんだって事を、誰かに吐き出して。
 辛いんだって事を、誰かと共有して。
 そうして、事実を、頭の風邪をひいてしまっている事を認識して、ようやく薬が飲める。その薬がどういうものなのか、それをわかった上で。優しい人は、必ず傍にいる。確かに、面倒に巻き込まれたくないからとか、そういう事を思われたりするかも知れない。だけど、そんな人のことも自分たちはそっと見つめてるわけだ。治るんだよ、治すんだよ。薬が治すんじゃなくって、周りの人の優しさが。鬱ではなく、おれを。

 だから、僕は僕でもおれでもない。
 だけど、ここにいる。

2006/01/18     海月                                                                                                                                                           




 
 ちょっと久々にやばい。

 先週、「死にたい」と言ってる人は想像力がないと断言した。だから僕は死んだらどうなるんだろうとよく考える。首をつったらいろいろ出るらしい。水死するとぶくぶくふくらむらしい。出血多量は痛いだろうな。病気は苦しそう。飛び降りるときは爽快だろうけど、落ちた先に誰かいたらどうしよう。交通事故で下手に助かっでも苦しそう。他人に迷惑をかけてまで死にたくない。どう死ぬにしても死体が残ってしまう。葬式は面倒だろうに何よりもお金がかかる。僕にかかったお金も無駄になる。

 僕はよく「生まれ変わったらクラゲになりたい」という。その表向きの理由は、何も考えずに海面をふわふわ浮いているから。何も考えていないというのはもしかしたらクラゲにとって失礼な話かもしれない。彼はすごい哲学者だったらびっくりだ。でも、とりあえずそういうことはここではおいておこう。
 クラゲに生まれ変わりたい本当の理由は、死体が残らないから。彼は死ぬと水へと溶けていってしまう。水は不思議だ。全てを包み込み、あらゆる形に変形できて、ものすごい力を秘めている。水力発電で電気も作れちゃう。そんな中に溶けていけるのだ。

 残念ながら、僕の死体は残ってしまう。溶岩にでも落ちない限り。だから頑張って生きているんだろう。

 生きる理由とはなんだろうか。生きている理由はあっても、生きる理由がなかなか見つからない。ときどき眠れなくなる。人生は短い。でも夜は長い。

 幸せになるため。そう信じたい。
 幸せになるためと信じて、周囲の期待に応えて、周りが認知する自分と自覚する自分にひどくギャップを感じてしまう。それでもそうするしか方法が見つからないから笑って、遊んで、自分に追いつこうと追い縋ろうとする。他に方法を探すために勉強して、考えて、静かに目をつむる。この世界にはいろんなものがあって、なにもない。僕はいるようでいない。けれどいる。でも僕はどこにいるんだろう。真理って?本質って?本当のことってあるの?愛とは、幸せとは、死とは、生とは、光とは。今日も眠れなさそうだ。

 幸せになったらどうするんだろう。それよりも幸せになれるんだろうか。誰か証明してください。誰か幸せになってください。

 死にたくない。ただ、水に溶けてしまいたい。

2006/01/12     ロンド                                                                                                                                                           




 
 成人式の同窓会で「死にたい」と酔ってる人がいた。

 死にたくなったとき。
 
 女優の裕木奈江さんの本「蒼い涙」に気に入りの詩がある。
 
「死にたい時…
 まず薬を買うの。大量にね。
 どうせ死んじゃうんだから お金の事は気にしない。
 おなべか何かに全部あけて
 その中から 目をつぶって 30錠選ぶの。
 30錠。
 沸かし冷まし湯を作っといて ひと息に飲んで…!
 
 下剤、栄養剤、解熱剤、胃薬、のどの薬
 どんな苦しみがあなたをおそうか
 でも平気よネ なんたってあなたは今「死ぬ気」でいるんだもの。
 苦痛の予行演習。本番の前に試してみたら?」
 
 僕はいじめっ子だったこともあるし、いじめられっ子だったこともあるので、毎日が本当にイヤになってしまったことがある。でも、平穏に暮らしていても、毎日がイヤになってしまうことは、本当は誰にだってあるんだろうと思う。「誰だってそうだろ」と思うと、くやしいことに少し安定する。誰でもない自分になりたいのに、みんなと同じであることに安定したりするのは、人間が本質的に集団行動する生き物だからだ。「逃げたい」と「死にたい」とはまったく別だ。
 
 「死にたい」と思う人間は、そのほとんどが自己中心的な人だ。自己中心的な人は孤独を感じやすいと思う。自分が生きて、自分が苦しみ、あるいは虚無を感じ、自分が死にたいのだ。本当はちっとも違うのに、勘違いしてそう考えてしまう。本当の孤独はもっと本当に違うのに。本当の孤独は、たとえば宇宙飛行実験で回収されなかったライカ犬のようなことを言うんだと思う。
 
 「自分」というイノチの存在は、残念ながらそのひと個人が抱えている自由な存在なんかじゃない。自分のイノチというものは、言ってしまえば株式会社みたいなものだと僕は思う。いろんな人の資産を持ち寄って、預かって会社にしているみたいに、いろんな人の思念や理想や努力を持ち寄って、イノチは成立している。
 
 僕の両親が僕を生み、必死の想いでここまで育てたのだ。その両親を生んだものもいて、その両親も誰かから生まれた。
 さらにさかのぼれば、恐竜のいた頃、僕らの先祖エオマイヤは、巨大な爬虫類に虐げられながらも「胎生」ができるよう進化し、「いまにみてろよ恐竜めー!オレの子孫がやっつけてやるんだからな!」とがんばって子を生み育てた。さらにさらにさかのぼれば、パンゲアが分離して衝突するころ、水中にいた先祖アカンソステガは変化していく環境に適応するため、進化して「手」を身につけた。
 
 みんなみんな、僕や君を生み出すためだ。イノチというのは、その時点での先祖たちの集大成なのだ。僕らの人格、意志、感情、苦悩などは、代表である僕らがそのイノチを制御するために授かっているに過ぎない。勝手は良くない。
 
 なのに、死にたいと言う人間の気持ちなど、最近、僕はほとんど理解できない。以前は自分もその一員だったろうに。自分が勝手に生まれて、勝手に死ぬなどということはありえないのだ。誰だって「会社の金を横領」みたいなニュースには憤りを感じるだろう。それとおんなじだ。自由にがんばっていいけど、借り物だってことを忘れてはいけないのだ。借りたものは返済しなければならない。
 
 では、どうやって返済したらいいのか。いつになったら楽になっていいのか。
 もちろんそんなことまで今の僕にはわからない。でも未来は今の自分が思いつくほどチャチではない。その返済方法を探すことそのものが人生であるのかもしれない。そして楽な人生などはない。人生はそういう仕組みになっているんだ。
 
 死にたい人には「生まれたとき、あんなに生きたくてミルクを欲しがったくせにもう忘れたの?」と言ってやりたい。記憶力悪いんじゃないの?と。生きたくって、それでも、死んじゃう人がいっぱいいるのに。死にたくないって泣きながら死んでいく人がいるのに。
 
 けれど。
 僕は中学生のころ、自殺してしまう人の記事を集めて読んでいた。たとえ理解はできなくても、本当は受け入れてやりたかった。世の中にはうまく自分さえコントロールできない人が、いる。

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