2005年のつぶやき達

2005年 12/31 幸せをありがとう
                                                                                                 

 先日、法事で日帰りだけど実家に行った。

 そこで親戚などから生前の暮らしや考えていたこと、遺産などの話をされたがあまり興味はなかった。けれどひとつだけ身にしみたのが、自分が思っていたよりも多くの人に、そして思っていたよりもとても愛されていたんだということ。

 僕らはよく「なんで生きているんだろう」とか「死んでもこの世界は何事もないように動いていくんだろう」とかよく考えることがある。人生の意味とか本当の自分とか。そしてときどきとても空虚になる。

 最近、「天使なんかじゃない」をよく読み返す。
 そこでの一節。

 「幸せになるために・・・わたしたち みんな 出会ったんだよね」

 僕らは生きている。けれど一人じゃない。なぜなんだろう。人に求められて、そして自分も人を求める。なぜなら幸せになりたいから。

 最後に幸せの三原則が出てくる。9月のつぶやきにも書いたけれどももう1度ここに記しておく。

 自分を信じること
 周りを愛すること
 明日を夢見ること

 どれが欠けてもそれは幸せじゃない。
 自分を信じないで、ただただ周りだけを愛しても
 自分だけを信じて、周りを愛さなかったら
 自分も周りも愛しても、明日が恐かったら

 もちろん君には欠点があったり、性格が悪いこともしばしばある。
 大丈夫。君は愛されてるよ。
 だからもっと自分を信じてごらん。
 そして、愛されてるとわかったら、周りを愛してごらん。
 恋人も友達もすれ違う人々も道端で咲く花も。全てを愛してごらん。
 そうしたら明日がきっと楽しみになるはずだ。
 世界は案外捨てたもんじゃない。

 愛されていたことがわかった。
 だから今度は僕が愛していく番だ。
 
 生まれつき優しい人なんて、会ったこと無いよ。…みんな、他人を傷つける事で自分の痛みを初めて知るんだよ?そうして、相手に与えた痛みもさ。悲しさと憎しみと優しさは紙一重で連鎖し続けるものなんだよ、多分。
心配してくれてありがとう。優しいよ、十分。

 あなたの中のあなたと会えてよかったよ。自分ばかり責めちゃだめだよ?みんな少しずつ背負おう。

 だから良いお年を。

 

2005年 12/20 粋に
                                                                                                 


 ヘビースモーカーでもチェーンでもないけども、とりあえずヤニ吸ってます。主な銘柄はJPS。
いや、お父ちゃんお母ちゃんスマヌスマヌ。1日平均4,5本ってとこか。

 お酒もタバコも美味しいとは思ったことはないけれど、どうしても精神的にウガーとなったときの気分転換にはもってこいで、しかも僕は飲み会を除いた日常ではアルコール抜きの生活をしていまして、あくまでもホビー的にタバコとは付き合っています。とはいっても、灰皿の上に吸殻がもっさりと溜まるのは嫌だし、そんじょそこらの自販機で手に入るようなタバコを吸うのは「上手くホビー的に付き合う」という趣旨に反してしまうので、ときどきタバコの専門店に行っては、期間限定販売ものとか、珍しい地域限定ものとか、面白いフレーバーのものに手を出しては楽しんでおります。

 部屋の中では吸わない。匂いがつくし、それにタバコの匂いは好きじゃないのですよ。だからベランダに灰皿おいて、白い息と煙を吐きながら、夜空を眺める。オリオン座が東の空にういている。先週は満月がきれいだった。

 お酒を飲むとしても、焼酎が好きだけれど、いっそのことリキュールを少しずつ集めてシェイカーを振って面白カクテルを適当に作って適当に楽しみたいと思っているし、ただグラスにどべどべと注ぐのは楽しみ的にはよろしくなかろう、と思っている。

 最近は煙管と煙草盆が欲しい。と思ってる。夕暮れが駆け足でやってくる空の下で外で遊ぶ子供を見つつ、ほのかに香る和香を焚きながら、熱い茶を片手に少し一服。もうそこではなにもいらない。かけた金の割に気がぐっと休まるひと時。

 煙管を手にしている時は、着流しを着なければいかんだろう。と思うようになり、そうなるといい着物が欲しいと思うようになり、そういう風に時間を楽しむようになったのなら、もうバリッバリに純和風の家に越さなければならんだろうな、という気持ちになるだろう。

 煙草盆に煙管を置く瞬間。
 紫色した煙が夕暮れの空に上って行く瞬間。
 子供が帰っていく足音。ほっとします。
 
 欲しいなぁ煙管・・・。

 タバコも酒も、楽しみ方も人それぞれ。と言いますが、家に同じ金を出して安い酒瓶を転がしておくのならいっそのことベイリーズや抹茶、ストロベリー、ココナッツ、ヨーグルトリキュールなんかの小瓶をシェイカーと共に小粋に並べていたいと思います。リキュールも行くところに行けば「あんじゃコリャぁァアァア!!!!」な値段で置いてますしね。そしてやっぱり焼酎も、いかつい陶器に入れてロックで飲みたい。あくまでも一人で酔うよりは友達なんかと小粋にきゅっと行きたいものです。

 酔えるという意味で酒もタバコも、出来るならば女とも小粋に付き合いたいなぁ。
 きゅっとね。

2005年 12/8 好きだとか愛だとかということ
                                                                                                 


 ちょっと前にテレビである女優さんが「恋は自分の幸せを追求して、愛は相手の幸せを追求するのよ」と言っていた。ある程度、的を得てるような気がするけど、得てないような気もする。(どっちやねん)

 今日はそんなお話。

 自分の自分による自分のための、The1人舞台な片思いから、相手が加わるとそりゃあ、背負うものも一時は二倍になったりする。「楽しい事は2倍にも3倍にもなって、悲しい事は半分になればいいよね」っていうのが最初からうまい事いかないし、人を好きになるのはけっこうエネルギーを使うのでめんどくさい。でも、最初に頑張れば頑張るほど、後は案外うまいこと距離をはかったりできるもん・・・じゃないですか?そうですか、僕だけですか・・・。

 気持ちなんかが重なれば軋むよ。摩擦があるからモノも動く。でも、まぁ見つめる先の視線が同じならきっとうまくやっていけるよ。

 一生一緒に生きていく。なんて口に出すのは容易いけれど、好きなら結婚できる。なんて事も思っていない。思っていないからこそ、男は迷うし、女は涙を流す。

 これからずっと一生、子供生んで育てて、喧嘩別れせずに仲直りする努力。毎日話をして、たくさん話をして、すれ違いそうになったら追いかけたり引き戻したり、お互いがお互いを好きでいる努力をしなくちゃいけない。馬鹿な話。真剣な話。抱き合ったり、突き飛ばしたり、そういう努力を出来る自身のある相手じゃないといけない。難しい事だと思う。でも簡単な事だと思う。

 泣いたり笑ったりでは済まないだろう。傷付けたり、後悔したり、誤解をしたり、哀れみを感じたり、ほんの少しの同情もまざったり、やめようかなと思う事とか、信じたり信じられたり、思ったり思われたりする事が疲れた事も、逃げたい事もあるだろう。

 辛いけれど、好きだったら辛くないんだろう。

 愛って結局何でもいいんじゃないか?という道の、多分5分の2に差し掛かったあたり。

 手放したことのない人の「離さないよ」と手放したことのある人の「離さないよ」は同じ台詞でも口調でも言う人も、聞く人も、すごい重たさを感じると思う。そばにいる事の幸せ。絶対的な、ぬぐいようの無い幸せ。また手放してしまうかもしれない恐怖と、そうさせない決意。

 そばにいる事がこんなに努力しないと得られない。当たり前だと思っていない幸せの形。

 ってことをおいらは書きたかったんだっけ?ちなみに自分の結婚とかは考えてませんよ!!

2005年 12/1 V
                                                                                                 

 動詞から考えてみる。

 物事を考えるとき、特にアイデアを出すときにけっこう有効な考え方は動詞から考えること。かの大旋風を巻き起こしたポケモンの製作者は、ゲームを製作するときは毎回、ひとつの動詞にしぼりこんでテーマを決めるそうな。そういう風にハッキリと動詞をテーマとして扱うことで、シンプルなゲーム性を追求していくわけだ。ポケモンの場合は「集める」。
 少年時代、昔の子なら昆虫採集とかに向けられていた関心をポケモンの世界に向けさせたわけである。こうして提示された動詞があると、開発する人たちも取り組みやすいことだろうと思う。なにをどうしてどうやっても、とにかく「集める」ということに集約されている世界なのである。
 
 小説でも、書きはじめに行き詰まるとき、時々「動詞で言うならどんな話だろう」とか考えることがある。これは闘う話?笑う話?閉じ込める話?隠す話?
 僕のオススメの動詞は「逃げる」という単語。逃げるという言葉自体がすでに持っている後ろめたい感じや、負けている感じが好き。言葉自体が持っているイメージというのは、裏切っていく楽しみが生まれるので、物語を構成する上でも親しめるものになる。
 本当は「逃げる」という行動自体は千差万別のはずである。勝ち逃げしてる場合も、逃げることで追うことになる場合も、ある。けれど言葉の「逃げる」には受け取った時点で多くの人に「負」のイメージを与える効力がある。だから面白いのである。
 
 具体性を伴わない動詞には、魅力を感じにくい。例えば「考える」とか。「考える」でも使いようだとは思うけれど、「考える」なら誰だって考えてるわけだし、考えるというのにはどうしても「何について」とかを付加させないと広がりを生みにくい気がする。「動詞」以外の「付加」は二次的な作業で、それではテーマとして与えるには力の弱い「動詞」ということになる。もしゲームをつくるなら「戦う」というテーマを考えるとしても、戦う方法についてもっと具体的な動詞・・・「斬る」とか「殴る」とかそういう動詞を当てはめた方が面白い発想が期待できるように思う。
 
 考える。考えていることすらわからずに考えている。思いつかない以前に何を考えているかも理解できない。
 
 ついでに最近の僕の動詞は、ちょっと難しい「鳥瞰する」という言葉を考えている。

 動詞と一口にいってもとてもたくさんある。「はじまる」「手に入れる」「変わる」「失う」「持ち歩く」「忘れる」「手放す」「捨てる」「思い出す」「無くす」「つくる」「拾い上げる」「終わる」「こわす」「生まれる」「気づく」「得る」「疑う」「信じる」
 僕はすごく昔を知る人に「変わらない」と言われがちです。よくも悪くも。
 まあ、そういう点では、いいことですね。

 「失っていない」ってなんかいいでしょ?
 

2005年 11/23 ムーミン谷は冬眠の季節
                                                                                                 

 12月に向け日に日に冷え込んでいきます!

 季節が変わると食も変わる。体のほとんどが食によってできてると思うから、その季節のものを食すことで体全体で、四季を感じられていると思う。

 雑誌『ダ・ヴィンチ』になぜかスナフキンの特集がくまれていた。スナフキイズム。確かに彼の生き方には憧れる。若そうに見えて、実はパイプを吸っている。僕が思うに彼は頭がいい。

 知識が整頓されていて、必要な知識以外は応用をもって知ることができる。だから余計なことは入っていない。いつも整頓されているので、いついかなることにも対応できる柔軟さがある。嫌悪することを長く留めておかず、忘れることも自在にできる。だから感情に左右されて判断を誤ることが少ない。感情が振れないので、人には少し冷たい人だと思われがちだけれど、「人のいい人」が「いい人」とは限らないことも知っているので、気に留めず、ちゃんと自分のタイミングで他人を救ってあげられる本当の優しさをもっている。

 本当に頭がいい人って彼みたいな人なんだろう。

 僕は天才なんかにならんくてもいいから、賢く、頭がいい人でありたいな。

 スナフキンは冬になると旅に出る。出身はムーミン谷なので、とりあえずの帰る場所はあるけれど、あまり彼は出身地を帰る場所だとは思ってないようだ。もちろん彼にもちゃんと親兄弟がいて、ミイとは異父兄弟らしい。けれど、実家=帰る場所とならないのはわかるような気がする。

 なんのために旅に出るのだろう。何かを探すためでもなく、何かから逃げるわけでもない。たぶんもっと世界に深く広くつながるためだろう。旅をすればきっと大切な人に出会う。僕は大切な人が大切じゃなくなったことがない。たとえば愛情をかけた人をのちのち憎むことは多分一生ない。逆に言うと、のちのち憎むような人間を愛するほど節穴じゃない。
 
 だから大切な人は地球上にどんどん増えていく。地球はどんどん住み良くなります。

 世界が家になるんだ。

2005年 11/17 ココロ
                                                                                                 

 今日はちょっと堅いお話。

 僕は大学で心理学を勉強している。

 心理学は心の理を学ぶを字義的には書くけれど、実際学ぶとそんなことはないような気がしてくる。なぜ心理学に興味を持ったのかはよくわからないけれど、今の僕の気分から後付けだけれど振り返ってみよう。

 物事には全て本質があるとされる。高校の先生に全ての本質を見抜けと散々言われて育った。まぁ本質があるかないかのイスラームでの原子論争や16世紀ヨーロッパでの普遍論争はひとまずおいておこう。とりあえず彼の言うとおり本質があるとする。では本質とはなんだろうか。

 火(A)を紙に近づけると燃える(B)という現象がある。つまりAが原因でBという結果に到ったのだ。この現象はつまりAのモノを燃やすという限定された性質にある。火は紙を濡らせない。原因をつくったものの性質。それが本質とされている。世の中は全て関係性で成り立っているので、その本質による結果を僕らは享受しているのだ。

 人それぞれは生き方も違い、考え方も違う。文化的にも個人的にも。それでも、大まかな本質はだいたい共感できるだろう。例えばさっきの火の本質とか。火は紙を絶対燃やさないよ!と言う人はいないだろう。全てのものに本質があるのなら人の本質はなんだろう?もし心が全ての原因だとしたらそれにはどんな本質があるんだろう?それが始まりだったと思う。

 心を扱った学問に代表されるのが哲学だ。けれど昔の僕にとって哲学はただ小難しく、「人生とはうんぬん」と語っているイメージがあって、寄り付くことができなかった。そして僕らが周囲との関係において一番原因に近いような性格などを扱う心理学が心を把握するのに一番の近道に思えたのだ。実際は違ったけれど。

 心理学は人の行動する仕組み、社会行動の法則、学習、精神病や適応障害の原因、福祉など幅広いジャンルにわたっているのだけれど、それらから心を理解することは程遠い。もし全てのジャンルを統合することができたなら、それは心に近くなることはできるだろうけれどそんなことができる人はそこらへんにはいない。

 アスファルトの割れ目から育つ花を見た時に感じる共鳴染みたものはなんだろう。熱が出たときに額に感じる人の冷たい手の温もり。他人とすれ違ったり、ふと目が合ったときに微笑まれる時の気持ち。少し入り組んだところにいるお地蔵を見つけた時の安心感はなんだろう。そういったことは心理学では知ることはできない。

 僕の本質は考えることと思ってきたけれど、その「考える」というものは何が原因で生まれたんだろう。

 まだまだ知らなきゃいけないことが多いようだ。

2005年 11/13 Play a role
                                                                                                 

 「優しい」って「役割」だ。
 
 「本なら熟読、人には親切」というのが僕の理想ではあるけれど、なかなかそうはいかない。立場の違いで戦わなくてはならない相手がいたり、憎しみのあまり余計なことをしてしまったり。
 それでも最近は「ついカッとなって」みたいなことは少ない。このごろ僕が怒るときは自分の手のひらの上でのことだ。「あああーそろそろ怒ってみせたりもしなくちゃな、面倒くさいなあ」という感じ。本当はずっと穏やかでいられたらいいのに。外面の話でなく、内面が。怒ったり、もめたりって本当に面倒くさい。この面倒臭さは、僕の中にある数少ない「結果としての優しい部分」だと思う。もめ事よりは自分が傷ついたりする方がずっと楽だ。
 
 このごろ思うのは、「争い」というのは意見がくい違って起こることよりも、同じモノが必要になって起こることの方が多いんじゃないかということ。つまり趣味の会う人同士の方が争うことになるんじゃないかということ。一人の人を取り合って、とか、より多くのお金が欲しくなって、とか。気が合うんだと思う。だから争う羽目になる。
 
 個人的な事情の場合、欲しいものを強く「欲しい」と伝えきれないことがある。その分、我慢する能力ばかり鍛えられてしまった。主張を押し通す前に止めたくなってしまう。それは「苦しい想いをしている方が尊い」という勝手な思い込みのせいだ。人は時にそれを「冷静」と評価するし、見方によっては「それほど欲しくもないんだ」とも思えるだろう。でも僕に言わせればただのビンボーくじだ。強い人間は強く生まれたのではなく、「強くなければならない立場である」ということがほとんどだ。
 主張の少ない、思いやりのある感情を「優しさ」という。「優しい」というのは、情が細やかで他人に思いやりがあるというだいたいの意味の他にも、「しとやか」や「控えめ」や「つつましさ」や「けなげ」なんかの属性を持つ。こう書くといかにも尊いけれど、人生的には言ってしまえばババばっかり引かされるのだ。それではきっと欲しいものは手に入らない。たいていそうだった。だからと言って子供のようにダダをこねて何でも手に入れる大人にはなれそうもない。もう僕はとっくに「強くなくてはならない立場」に入ってしまっているからだ。
 
 力んだり抗ったりし過ぎずに、縁があって自分の手に落ちてくるようなものだけ、自分のまわりにあるのが本当は一番いいのだと思う。でもその縁とか運命(命を運ぶと書いて運命だ)とかの中に、どれだけ自分が努力する割合が含まれるのかと、いつも考えてしまう。がんばらなかったせいで失ったら?でもがんばったせいで誰かと争うなら?
 結局いつでも世界の仕組みの中で、僕は「優しい」役割を果たすように運命づけられているような気がする。僕が我を通して何かを欲しがるのは、世界の仕組みのバランスの中で非常に良くないことなのだ。我慢することでみんなが幸せになれるならば、僕はそれで幸せだ。それ以外に幸せであれる状態がなかなか見つからない。
 自分の役割があるならば、それを全力で演じなくてはならない。この世界は長い長い舞台なのだ。観客の心を動かす演技を必死にしなくてはならない。足を踏み外しそうになってもばれたらいけない。観客の拍手がなり終わるまで、この2本の足で立っていなくてはいけない。ここは我慢だ。
 
 欲しいだけ欲しがって、力ずくで取って満足できる人は、本当に幸せな人たちだ。
 
 でも僕にも、争ったりしても、どうしても欲しいものは、あるんだ。

2005年 11/4 言葉の向こうへ行く前に
                                                                                                 

 「やっぱり男の人に大事なのは優しさですよね」

 と、女の人が言うことがある。では「優しさ」とはいったいなんだろう?扉を開けて道をゆずってあげること?おごってくれること?ライオンに食べられるインパラを見てかわいそうだと思うこと?失恋にへこんでいる君を慰めること?「だいじょうぶだよ。」何が大丈夫なんだろう?

 「頑張れ!」

 と言われることがある。君は僕の何を見て頑張れって言っているんだ。何をどうこれ以上頑張ればいいのだろう。僕のこの疲れた顔が見えていないのかな?それともまだまだ頑張り足りないのだろうか?信じたくはないけれどもしかして君は僕の事を無責任に応援してくれているのかな?

 「やっぱり友達って大切だよね」

 と納得している人がいる。友達ってなんなんだろう。1年前友達だった人は今も友達だと言える?友達ってそんな移ろいやすいものなのか。1年で増えたり減ったりする存在が本当に君にとって大切なのか?恋の話をしたら友達?ずいぶん簡単な資格だ。そんな友達だったら僕は君の友達にはなりたくない。僕には友達はいない。

 言葉は言(こと)の葉という。事物(こと)の本質という巨大なある大木を1枚の葉っぱというカタチで僕らは垣間見てるわけだ。たった1枚の葉っぱだけど、葉っぱは1枚しかない。僕らはその葉っぱを大切にし、そこから木の種類、大きさ、樹齢、美しさ、偉大さを想像しなくてはならない。想像しきれない場合もあるけれどそこには想像力と想像しようとする誠意が必要だ。何事にたいしてもこの二つは大切だけど。

 もっと言葉を大切にしなくてはならない。言葉が本質ではないにしろ、本質が形式的に顕在化されたものだからとても強い魔力を持ってることは周知の事実だ。ある言葉で一喜一憂することもある。ある言葉に生き方を変えられることもある。

 大切にするってことは出し惜しみすることではない。もっと言葉に対して誠意を払って、考えなくてはならないってことだ。
 以前、「愛する」がファイナルでないと話した。おそらくその先に愛する本質があるのだろう。

 優しさとか愛するとかファイナルワードを口にだすとそこでその樹は枯れ果ててしまう。

 次回は優しさの本質を探ってみようかと思う。(いつにない引っ張り方だ!!)

 

2005年 10/31 季節を感じる
                                                                                                 

 秋がくる時、うまく言えないけど、体はちゃんと「代謝」しているような気がする。夏という細胞からムクムクと秋という細胞に変化していく感じがするのだ。
 それは朝夕の涼しい気温とか、キンモクセイの匂いとか、日ごとに縮んでいく日照時間とか、そういうものを感知しているのかと思っていたけど、最近「食べ物」じゃないかとも思う。「秋のたべもの」を食べて、人間は秋の状態に代謝していくのではないかと思う。
 
 たとえばサンマを食べたから。たとえば栗を食べたから。たとえば梨を、キノコを、新米を。食べたことによってカラダは敏感に秋を感じ取って、どんなに理性が、去りゆく夏を惜しもうとも、もうカラダは内部からバキバキと秋の状態に変貌していくのではないだろうか。
 それは「種類」として秋のたべものでなくともいいのだとも思う。シメジでも、ハムでも、タマゴでも。普段食べてるものでも、季節によってそれは微妙に違う。大きさも、味も、水分量もぜんぜん違う。だからカラダの方にどんなに秘密にしていてもバレてしまうのだ。たとえコンビニ食や、毎日変わらぬメニューでも。冷凍食や、輸入品だとしても。
 
 秋に関わらず、カラダは、何で季節を強く感じていられるのだろう。夏、エアコンの強く効いた部屋にいると、そこにいる自分は間違いなく寒いはずなのに、季節が夏であることを無意識のうちにハッキリと自覚している。それが自分だけなのか、人間全般にいえることなのか、生き物全般にいえることなのかは知らない。でもハッキリわかる。室温が低いのが限定された世界だけで、その外は暑い夏なんだということをちゃんと自覚している。そして暑い外の方が、不快指数が高くとも正しく暑くてずっと安心する。
 
 話を最初に戻して。代謝して変化するのだけれど、そういう変化があって、それがきっちり収まるのは秋だけのような気がする。冬から春はぼんやりしていて変化を感じないし、春から夏というのは、なんとなく強引なスピード感があって、カラダはそのスピードに引きずられているような気がする。「夏バテ」という言葉は、そのスピードに疲れて生まれた体感的な言葉じゃないだろうか(熱量を生み出す方が本来エネルギーを使うのだから「冬バテ」こそあり得そうな話なのに)。
 そして秋から冬というのはそんなに変化しない気もする。内的変化は秋のうちに完成して、冬に向けては外的な変化しかあり得ないような気がするのだ。内面が先行して、冬にはもはや上着を重ねていくしかないような、そんなイメージ。だから秋は正しい変化がカラダに訪れて、それにすっぽり身を任せていけるようで安心する。そう感じるのは自分だけかも知れないけど。
 
 結局のところ、秋びいきなのだろう。
 
 とにかく僕は暑い季節よりは寒い方が好きで、それはつまり冷たいよりもあったかいモノの方が好きだから、それを堪能するために寒い季節が好きなのだ。
 
 地面も空気も代謝して秋がくる。そのあいだにいる生き物も軒並み秋に変化していく。もちろん人間も正しく秋に変化していくのである。季節のある国で本当によかった。ずっと夏の国の人は、いつ肉まんやブリトーを食べるんだろう。

2005年 10/21 手袋を買いに
                                                                                                 

 京都の秋はめっきり冷え込んできた。朝、バイトに行くのがつらい。

 夜にとぼとぼ散歩をしているとふとある絵本を思い出した。
親子の狐がいて、あまりに寒く子狐の手が霜焼けになってしまった。
そんな子狐が手袋を買いに行くお話。その絵本の好きなラストシーン

『二匹の狐は森の方へ帰って行きました。
月が出たので、狐の毛なみが銀色に光り、その足あとには、コバルトの影がたまりました。

「母ちゃん、人間ってちっとも恐かないや」
「どうして?」
「坊、間違えてほんとうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、掴まえやしなかったもの。ちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの」
と言って手袋のはまった両手をパンパンやって見せました。
お母さん狐は、
「まあ!」とあきれましたが、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」とつぶやきました。』
(新美南吉『手袋を買いに』より)

 絵本から学び取ることは多い。
 はらぺこあおむしは食欲にひたすら従ってしまった。
 スイミー他の魚たちと大きな魚を演じるため目になった。
 他にもおおきなかぶ、101回生きた猫エトセトラ・・・。
 自分というものを見失いつつこんな世の中だからこそ、絵本に教えられることは多いんだろう。

 ほんとうに人間はいいものなんだろうか。

 今日は短いけどこんなもんで。ちょっと書いてみたかっただけなのです。

2005年 10/17 徒然なるままに
                                                                                                 

 「秋の匂いがする。

 学校にいく途中の銀杏の匂い。お寺から風に運ばれてくる焚き火の煙。コンビニで買う肉まんの湯気。全てに秋を感じる。風が季節を呼んでくる。

 僕は四季の中で秋が一番好きだ。イベントはハロウィーンくらいしかない季節だけれども、海にも行けないし、ウィンタースポーツにも行けないけれど。食べ物は美味しい。涼しいから集中できる。紅葉がきれいだろう。マフラーができる。少し厚着してオシャレしてみる。なんだか好きだった子を思い出す。家でひっそりと本を読むのもいいだろう。ふらっと旅に出るのもいいだろう。

 『一人で誰も知ってる人のいないところへ行きたい。みんな静かにしていてくれればいい。お願いだからイライラさせないでくれ。風の音が聞こえないのかい?きっと聞こえないんだろう。でもとりあえず邪魔はしないでくれ。僕は風の詩を聴きたいんだ。』

 芸術の秋。先日、京都市立美術館にルーブルからいくつか作品が展示されていたので、見に行ってきた。そこにいた絵画たちは現実よりも遥かにリアリティを帯びていて、一番リアリティがないのは現実ではないのかと思った。もし絵が真実ならば、アニメには1秒間に24回の真実がある。一瞬、真実が見えなくなる。これを描いた人たちは何を見ていたのだろう。近づきたい、少しでも。

 枯葉の散る並木道が見える喫茶店で一日、本を読んだり、ぼーっとして過ごしたい。

 お金なんかなくてもなるだろう。狭い下宿の部屋で友達と朝まで騒ぎたい。

 嵐のように毎日が燃えないだろうか。息がきれるまでもう走れないのか。この日々の全てが虚しいなんて誰も言えないだろうか。

 君は今、何をしている?見果てぬ夢をまだ見続けているのかい?

 僕の心には何も響いてこない。僕の心はどうしてしまったんだろう。」

 ってなことをヒマな授業中にノートに書いていました。もう何も考えずにつらつらと・・・。病み!?

2005年 10/12 ローマ帝国滅亡
                                                                                                 

 最近の僕は思慮深い。ここ1ヶ月は僕の中で大きな革命だ。急速に新体制が作られつつある。

 けれど考えれば考えるほど、みんな何を考えているのかわからなくなる。わかる必要もないし、わかりたくもないが気になってしまう。何が楽しいのだろう。何で笑っているのだろう。僕は本当にわかっていたのか?わからなくなったのか?わかっていたつもりだったのか?風の音だけが聞こえる。

 現実のたやすさが思わずおかしくなってしまう。この調子で単位をとって、就職して、結婚してしまえばもう人生が完成してしまう。もちろん人並みに悩んだりするだろうけど、そんなのは下水溝に落ちているタバコの灰カスくらいにとるにたらないものだ。太陽より早く起きて、働いて、学校へ行って、座って、話して、帰って寝る。義務として慣れてしまえば、それは決して難しいことではなかった。それはむしろ簡単なことだった。頭と肉体のコネクションを切ればいいだけなのだ。、体が勝手に動いている間、僕の頭は僕自身の空間を漂う。一度運用の手順を覚えてしまえば、あとはそれを反復していくだけのことだ。こっちのボタンを押して、あっちのレバーを引っ張る。目盛りを調節し、ふたを閉め、タイマーをあわせる。ただの繰り返しだ。

 もちろんときどき変化はある。友達から電話がかかってきたり、女友達と飲みに行ったり、月曜日はサークルの全国大会行きが決定した。株価が上がった。お腹を壊した。
 でもそれらの出来事は僕の存在を揺り動かしたりはしない。友達と長電話して、女友達と大いに語り合った。、新潟に行く旅費をためなくてはならない。株価がまた上がった。お腹がまた今日も壊れた。風がまた通り過ぎていく。

 誰も僕の革命に気付いていない。延々と本を読み続けていることも、僕の頭が現実から何百年も何万キロも離れた場所にあることも。何の愛情も感情もこめずに現実の事物を処理しつづけても、以前とあまり変わらない。

 傾向。それらはまさに傾向に過ぎない。ボタンを押してレバーを引っ張るだけ。そうすれば現実はどんどん先に流れていく。そのようにして、僕の靴のかかとが片減りするように傾向的に消費されていき、それを調整しクールダウンするために眠りを貪る。

 生命的存在基盤を失うとしてもかまわない。僕自身の精神は僕だけのものだ。いつ死んでもかまわない。なぜなら毎日死ぬ気で考えて生きているからだ。

 風は本当に吹いているのだろうか。

2005年 10/6 飛べない豚はただの豚か
                                                                                                 

 宮崎監督が手がけたジブリ作品には名作と呼ばれるものが多い。
 けれどもののけ姫以降クオリティが下がっていくジブリ作品。はっきり言って、千と千尋で見られるシンボリスティックな色彩など必要ない。

 千と千尋では、人間界が緑、神々の世界が赤や紫で表されていて、その間に流れる青い川がその境界線だ。色の三原色によって世界を分けてみる。千尋が着ていた服は緑色、千と呼ばれるようになって服は赤くなる。ちなみに幼少の頃、琥珀川に溺れたときの靴の色は赤だった。湯婆婆は紫、そして間を取り持つハクはどこか青を連想させる(てか声優下手すぎだろ)。そして同時に白を表すハクと表裏一体の黒の顔なし。

 へぇーと監督に感心するけれど、同時にだから?と疑問も首をもたげてくる。訴えるものがないのだ。

 以前、ナウシカの漫画を読んでいることを書いたけれど、あれには言いたいことがつまっていてナウシカを通じて読者に訴えてくるものが感じられた。正義と悪、文化の繁栄と進化そして衰退、生と死、マクロとミクロ。ラピュタにだってムスカ以外に見所はやまほどある。ぼくらの意識面に働きかけられる。

 また隠れた名作として紅の豚がある。あれは僕らの無意識面、アーキタイプに働きかける。僕がよく見るテキストサイトの方が
 『何を見ても、
 何度見ても、
 紅の豚の、
 あのドブ川傍の小さな工場から、
 新しい真っ赤な飛行艇が飛び立つあのシーンの素敵さには敵わない。』
と書いていた。その通りだと思った。よくわからないけれど感動するのだ。この感動は感情とは違ってもっと深い深い根っこの部分のこと。うれしいも哀しいもとてもすごい力を持っていて、思わず周りの人に影響を与えてしまう類のもの。心を鷲掴みされて揺さぶられる感じ。マルコがアジトとしていた。海の入り江も美しかった。

 サバンナの草原を走る野生動物を見ると何故か泣きたくなったり、友達の何気ない一言にとても傷ついてしまたりするのと同じだ。その感動の類は容易に言語化できないし、もし出来てしまったら、その感動の本質が損なわれてしまうような気がする。

 好きだってそうだ。愛情というものも定義が難しい。それは一種の感動だからだ。心が変になって、恋になり、それから恋愛になる。そして愛というものになって、愛情がうまれる。まぁ下手すると愛がなくなって情だけになってしまうのだけど。ただ、愛だの出会いだの実存だとやさしさだの運命だのと言ってしまうと、そこで終わってしまうのが一つある。じゃあ君の愛はなんなんだ?言葉にできるのか??まぁ僕は先週、運命を言葉にしようとしたが結局は見事に空中分解してしまった。

 ずっと前にみたアメリカ映画にこんな場面があった。愛情がすれちがってばかりいるのに夫がたまりかねて、奥さんに”I love you”と言ったら、奥さんが”Well then?”(それから?)と答えていた。最後の言葉を言ったのに、それから?と言われたらどうしようもない。

 愛するということがファイナルではないのだ。

2005年 10/1 夢見たものは
                                                                                                 

 今日はもしかして10月最初の日だろうか。9月はあっという間だったな。ジャンプの発売日もすぐに来てしまう。苦しむことは多いが悲しむことはないんだ。今日も生きる。明日も生きる。猫が飼いたい。

 たまたまテレビをつけたら、「クレヨンしんちゃん」の劇場版をやっていて、見入ってしまった。そして思わず涙してしまった。見る前までは、「マクラ投げしたいなー。ってかあれってどうやったら勝ちなんだ?」とくだらん妄想をしていたのに、1時間後は「何のために僕らは生きるのだろう。恩を借りてばっかりで返せるときはいつくるんだろう。」と一転してしまった。恐るべしクレヨンしんちゃん・・・!!

 日本の誇るものは何か?という問いに対して僕は「大阪のおばちゃんと漫画、アニメ」と答える。クレヨンしんちゃんに限らず、影響力の強いアニメは多い。生まれた時にはそこにいる、サザエさんとドラえもん。みんな海洋生物の名前だなんてとてもシュールじゃないか。ドラえもんの映画にも感動させられる。僕らの世代に対してとても強い影響力を持っているドラゴンボール、スラムダンク。ほとんどの男の子がスーパーサイヤ人になれると小さい頃思っただろう。でもサイヤ人でもないし、カメハメ波が撃てない僕らはクリリン以下だと気付くまであまり時間はかからなかった。

 マンガを軽視する大人がいる。自分も幼い頃は夢を与えてもらったその恩を仇で返すとはなにごとか。

 なぜ娯楽がマンガやゲームが世で出回るのだろうか。なぜなら子供たちが現実に対して夢や憧れを抱くことができないからだろう。旧日本社会で子供が武士に憧れるようなことがありえない。現在の社会(?)にはもちろん嘘や欺瞞、矛盾が満ち溢れている。子供たちは早いうちに現実へ気付き、複雑化した高度資本主義の歯車へ組み込まれていく。

 しかし夢を売る側は市場を拡大しようと現実へ目覚めるのを少しでも遅らせようとする。夢へと誘う媒体も現実へ似せようと頑張る。ゲームはどんどんリアルになっていく。バーチャルでしか存在しえないようなメイドの女の子がカフェにいてしまう。それは後楽園で戦隊ものがイベントをするのと同じ論理だ。少しずつスタンダードが変わっていく。重要なのはそれを違和感なく受け入れるか反発するかだ。

 自分たちで作り出したものを自分たちで批判して、責任をその”もの”に押し付ける大人は大人なのか。

 僕は漫画大好きです。現実に気付いてしまっているけれどもう少し夢を見ていたい青年です。そういえばクレヨンしんちゃんのクレヨンってなんなんだろう?

2005年 9/26 未知に満ち溢れた道
                                                                                                 

 運命論

 ありがちな話になるけれどキミは運命を信じるか?けっこう信じる人はいると思うし、それぞれに考える運命の在り方があると思う。それがまた自分の在り方なのだろう。運命を信じないのもその人の在り方だ。ここを読んでくれている人たちにさらに僕という理解してもらうために僕の運命論を話そうと思う(それはもちろん僕のエゴなのだが)。

 いままで僕はゴールという言葉を使ってきたように、運命は道のようなものと考えている。けれどそれは50M走のような一直線ではなく、複雑に入り組んでいて、とても多い分岐点がある。一瞬一瞬で僕らは選択し、決断し、道を選び抜いて歩いている。今、この瞬間も。道は全てに通じていて、行き止まりはあるけれど、なくなることはない。目標地点は、死でもあって、成長のピークでもあって、とてもフレキシブルに変化しやすい。
 電車や車からの景色に歩いたことがないような道を見たことがあるだろう。一度も歩いたことない道もある。そんな道を見るたびに僕は人それぞれに道があるのだと思う。道は全てに通じていて、あらゆる道に出る可能性があって、そして様々な人々に僕は出会う。曲がり角で会うだけの人もいるし、しばらく一緒に歩く人もいる。その時、いがみ合うこともあれば、仲良く話し合いながら歩くこともある、ときにはまったく無関心なこともあった。そしてしばらく歩いていると、別れてしまったこともあった。

 とどまることはあまりないが、迷うことはある。そんなときは思い切って、こっちだ!とカンみたいなもので決めることもあったが、ほとんどにおいて人に聞いて決めてきた。道を教えてもらったり、ひっぱってもらったり。その先が行き止まりだったり僕の進みたい道でないとわかったら、戻って別の道を進むだけだ。

 荷物は軽いほうがいいが、とても手ぶらで歩いて耐えられる道程ではない。灼熱のときは水が必要だし、勾配な道では丈夫な靴が必要だ。その時々で、状況に合わせて必要な荷物を取捨選択していくだけだが、どうしても捨てることのできない荷物もある。それは僕にとっては記憶であったりする。その時々で加速し、減速する。それが僕の人生なのだ。

 ゴールまでも行き方はわからない。だからペースを調節するのはもちろんなのだが、脚力やメンタル鍛える必要もある。それは広い糸をきれるかどうかを大いに左右することである。
 ときには自分の進んでいる道が自分の道なのか戸惑ってしまうこともある。こんな偏狭に来て自分は大丈夫なのか。行きたいところから実は遠ざかっているのではないか。そんな時は、とりあえず歩くしかない。結局は、自分の行きたいところが自分にさえわかっていないのに人に聞いても正解を得られる確率は甚だ低いわけである。とりあえず歩いて歩いて、そうすれば何か見えるだろう。標識を見つけることもあれば、高台からゴールが見下ろせることもある。

 そして僕は出会うだろう。共にゴールまで離れず歩いてくれる人に。半身とも呼べる人に。

 運命は命を運ぶと書く。運ぶのは自分の命でもあり、共に歩く人に命も預け、命を預かり運ぶのだ。

2005年 9/21 東京
                                                                                                 

 余裕が出来た。

 生まれ育った場所に戻って、会いたかった人にも会った。やり残したことも済ませてきた。そのおかげかある程度の精神的余裕ができた。おかげで本を読むゆとりもでてきたし、僕が、素晴らしい小説や音楽に出逢う時に感じるような感動を、いつか人に返したいと思えるようになった。少しずつだけど小説のプロットというか概略も出来てきている。とりあえずゴールは見えないけれど、ゴールが見えたときのために今を精一杯頑張っていこうと。貪欲にイイ男になってみたい。あいまいだけどそれから最終目標が大きく外れることもないだろう。

 「どうだい、元気でやっているかい」という問いかけを何度も聞いた。尋ねているのは過去の自分だ。僕は不幸ぶりたかった。過去の自分になんとかしてこれから陥るいくつかの残念な事実を教えてあげたかった。でも、過去の自分にとっていつまでも未来は未知だった。現在の自分が明日のことを観られないことと同じだ。彼はきっと数年後、ここに降り立ってしまう。
 
 「時々しんどくなるよ、でも元気だよ」という答えをできるようになるために、僕はこの人生のほとんどの時間を費やしていた。
 
 運命の分かれ道はいくどもいくども現れるから、もしもこちらを選ばなかったならという「if」の世界もたくさんたくさん現れる。でも、友達が来て、一緒にご飯を食べて時には宙を見上げる。この世界が僕の真実だ。
 
 何度でも繰り返そう。もしもこの先、過去の自分が現れても「毎日楽しく暮らしているよ」と自信を持って伝えるために、20年間で培ったささやかな能力とちっちゃな才能にしがみついてがんばろう。高校の頃の心を思い出して、抱いた夢をかなえるため、悔しさをバネに優しさを胸に。

 できることが広がって行くという快感は、訓練にしか伴わない。アートでも武術でも職人でも係員でも、なんでもそうだろうと思う。昨日できなかったことができるという自分。いつかやりたいと思っていたことに到達する、自分。

 踊らなければならない。足が痛くても、熱く、強く、多角、速く、上手に踊らなければならない。人には上手く踊っているように見えなければならない。躓いてしまってもわからないくらいに。合わせなくてはいけない音楽は、早いけれど。
 
 なんでも一生懸命に生きていたら、いつかどこかに到達できるかな。

2005年 9/14 HAPPY?
                                                                                                 

 福岡へ

 友達と旅行へ行ってきた。僕は旅行がけっこう好きなのだが、それは観光名所を回るのが好きだからではない。いつもと全然違う環境による刺激とその開放感が堪らない。そしていろいろなことを考える。

 今回の旅行で痛切に感じたのは「『今』」ということ。きみは『今』何を考えてる?何をしている?それで満足?それで幸せ?

 僕がバイブルにしている漫画のひとつに『天使なんかじゃない』(通称:天ない)がある。ちなみにぼくが好きな登場人物はマミリンだ。そこには名言がたくさんちりばめられているのだが、一番のお気に入りに「幸せの三原則」というものがある。
・自分を信じること
・周りを愛すること
・明日を夢見ること
 どの原則にも自信を持って「してるぜ」とは言い切れない。

 中学・高校までが他人などとの最小限の社会環境を体得する場だとすれば、大学はさらに数百倍へと広がるその社会の中で自分をどう位置づけるかを試行錯誤する場だと思っている。つまり自分について思案できる最後の時間。僕らはその縁取りされた時間の中で、本気になれるものと幸せな立ち位置を探さなくてはならない。スポーツとか学問とか恋とか。なんにせよ迷い悩む時間はもうあまりない。

 中高では部活などの環境が整えられていて、そこに所属さえしてウマさえあえば本気になることができるが、大学以上になるとそんなことはまずない。本気になれるものを見つけて、自分で環境を作って、自分の力で頑張っていくしかない。なにかしようとするけど面倒臭くなって途中でやめてしまう。おそらくそれは本気ではないからだろう。がむしゃらにやっていきたい。

 少し抽象的なるけど、福岡からの帰りに友達に似たような話をした。
 そこでぼくは行動するエネルギーや気力というものを部活とかでよく使うスポーツドリンクなどが入ってるタンクに例えた。やりたいことはたくさんあるけどどれに対しても違和感ばかりがつきまとう僕らのタンクの中身は濃度の薄いただの水である。蛇口のとこのボタンを押せば水はたくさんでるけれどあまり美味しくない。10代の思春期といえる時期でのそのタンクの中身はあわばアクエリアスの原液のむっちゃ濃度が高くて、あの味は強烈だ。強烈過ぎてそのときはとてもすっぱいけれど、汗をかくとたくさん飲まざるえないので若さでけっこう飲めてしまう。
 汗をかくこともあまりなく、原液をそのまま飲むことはもうできないことはわかっているけれど、水ばかり飲んでると、その強烈の味がなぜか懐かしく思えてくる。水に味をつけたいのだ。でもアクエリアスの原液はどこに売っているんだろう?それを今、僕らは探しているよねって話だった。美味しい水を飲んで汗をかきたい。

 つまり今回言いたいことは、少女マンガは男が読んでもいいものだとか、ポカリよかアクエリだとかそういうこともあるけれど、それより明日を夢見て夜は寝たいなってことだ。

                   今週のひとこと『いつでもなにかに傷ついている それでもなにかにぼくらは頑張ってる』

2005年 9/9 お日様
                                                                                                 


お洗濯が嫌いだ。
 
 ということに最近気がついた。うすうすメンドクサイとは思っていたけれど、どうやら本格的に僕は洗濯が嫌いなのだ。サークルの合宿や台風のせいでたまった洗濯物を見て思った。このカミングアウトによって「もしや君は不潔なのでは」と疑いを持った方々に説明しておくと、「確かに僕は不潔かも知れないから気をつけろ」と言いたいことはそれだけだ。
 
 実際、毎日のように服を着るわけだから洗濯すべき物ができる。もじゃもじゃペーターではないので洗濯から逃れることはできない。でも洗濯機をスタートさせる時点でなんだか憂鬱になる。洗濯機「ジャブさま」の仕事中はいい。全自動だし、そんなにうるさくもない。ジャブさまの仕事後の「干す」というのと「乾いたのを取り込んでたたむ」という段階がとにかくめんどくさいのだ。
 
 どうしてこんなにめんどくさいのだろう。今日は頭脳がヒマだったから、工場などの管理者がやるような「効率化」「合理化」について考えてみた。つまり洗濯に適した環境というものが整えば、洗濯は簡単に近づき、僕の憂鬱のタネも一つ減るというわけなのだ。
 まず、ありきたりだが通路の確認。作業ルートを塞ぐ環境が効率化には最も妨げとなる(出入り口で立ち話をするとか、通路に荷物を置くとか)。が、確認するまでもなく、僕の部屋はモノで溢れきっており、ベランダからジャブさまに到達するために乗り越えるハードルが五つもあった。スーファミがまず第一の門番と構えており、敷き布団、物置と化したテーブル、ダンボール、焼酎鏡月のペットボトルと続く。普通に歩いていけないところに洗濯機があるのだ。よってこれらの改善が課題となる。
 次に洗濯に必要な資材の確認。十分な物資がなければ「洗濯を行なうこと」、もしくは「洗濯を行ない続けていくこと」に支障が生じる。でも洗剤は一人暮らしの場合なくならないし、1年に1回くらいしか買わない。。洗濯バサミもハンガーも十分だ。強いて言えば、室内で干すとき用に部屋の中にも物干しざおがあればいいと思うがカッコわるいから別になくてもいいだろう。そもそもめんどくさがってしないと思う。乾燥機も欲しいがあまりあの臭いが好きではない。まあ資材面には問題がないようだ。
 あとは作業員(つまり自分)の意識改革と作業工程の確認による効率化だが、優れた洗濯者(せんたくもの:洗濯をする人)というのがどんな人でどんな工夫があるのかわからないから、取りあえず置いておく。まず作業ルートから改善をはじめるのだ。
 
 ルート作りの一番いい方法は「距離を狭める」ということだが、洗濯機の場所も物干しの場所も動かすことはできない。よって道を整備するしか方法はない。部屋から水場(以下オアシス)までは1,スーファミ、2,テーブル、3,敷布団と服の山が邪魔しており、特に最後の山はどんどん増えていく。
 2,敷布団って?という方に説明しておくと、これはうちにある大量の漫画とふかふかのベッド(名はきよしクン)の心地よさのあまりに寝ていく人たちがいたときに僕が寝るためのものである。このとおり僕の部屋は部屋っていうよりも魔境に近い状態で、モノがときたま神隠しにあい我が家はブラックホールと呼ばれることもある。まあ人間はなかなか魔境を越えてまで洗濯機を廻しには行きたくないようなのである。
 とにかくこの狂った世界を浄化し、人間に等しく洗濯をする権利を取り戻さねばならない。まずスーファミのコードを整理。次にテーブルを端に寄せて、服はいるものといらないものに分けていらないものはフリマに出そうか。きよしクンは引退していつか収納ができるベッドをゲットして漫画や本を整理したいと思う。
 
 果たして部屋に洗濯の平和は訪れるのか?次週、服と漫画の山がとんでもないことを引き起こす!かも知れないだろうか?

                            今週のひとこと『右手を開けてみて?おれ、いない?』

2005年 8/23 キズナ
                                                                                                 

 夏の日巡る

 海に行ってきました!!塩辛い大量の水の中でぴしゃぴしゃやるだけなのになんでこんなに惹きつけられるんだろう?向かう途中まであめが降ったりしていたけど、下田についてその日泊まるところのチェックインしているうちに晴れてきたりして天気にも恵まれた。夜はバーベキューで食べきれない量の肉を焼いたり、砂浜に花火しに行っていつの間に服を着たまま海の中ではしゃいでるしまつ。男も女も関係なく足を持って、手を持って、豚の丸焼き状態にされて海に放り込まれる。服どころか下着もびしょびしょだ。帰り道は外灯もない少しだけ舗装されている山道。替えの下着を買いに行ったコンビニ組を先発隊は夜道の中で待ち伏せ。通り過ぎたところを後ろから叫びながら追いかける。逃げ惑うばか、追いかけるアホ。そして着替えたら飲んで大いに語る。下ネタな話から恋愛相談も、これからのことも。結局、最後まで生き残ったのは僕ともう一人だけでみんなは疲れて寝てしまった。
 久しぶりに楽しかったー

 行ったメンバーは小学校の友達たち10人くらい。僕は中高と私立に行ったので、接点は小学校の頃だけ。大学にも入って通うところも住むところになりつつ僕らだったけど、しょっちゅう集まっている。周りからもよく驚かれる。

 旅行中に高校の友達とメールをして、「こんなことしたんだよー」みたいなことを報告しながら中高の友達のことも考えてみた。高校の友達では会ってもそんなにテンションは上げられない。実家に帰るときもあまり高校の友達とは遊んでいない。大学や小学校の友達には自分を70%くらい出してるような気はするけど、高校では50%がいいとこだった。自分を「理解して」くれると思った友達は、一人か二人ほど。連絡はめったにとらない。メールを送っても返事がないこともしばしば。こんなもんだったか。僕たち仲良くなかった?「忙しい」っていってもメールに用件を書いておくるのに1分もかからない。分単位でスケジュール管理をしている大学生なんて(知っている限りで)存在しない。

 「卒業しても連絡取り合うのが本当の友達だよ」とよくいうけれど、そういう意味では2年前に卒業した中高6年間での友達は片手ほどだ。8年前に卒業した小学校友達と変わらないかそれより少ない。

 はっきり言ってあまり東京に帰りたくない。帰るという言葉を使うのも億劫だ。実際に僕の家があるのは京都なんだから。家族に会っても特に話すこともないし、妹の面倒を見るくらいだろう。あと友達と事務的な話をするくらい。遊ぶ予定がある日は1日しかない。
 
 なぜ京都に越してきたか。それにはたくさん理由があるけど、東京という場所が僕に合わなかったというのが最大の理由だろう。東京にいるとドロと生ごみの臭いが体に染み込みそうで居心地が悪かった。1000万人という驚異的な人数があの狭い区域に押し込まれている現実と人口密度に比例して感じる孤独感。夢はたくさんころがっているし、道端にも売っていたけれど、供給以上に需要があるのが現実で、挫折したときの誘惑もありすぎた。
 そしてもうひとつの大きな理由に東京へと引き止める引力がなかった。友達、家族。どれも東京の斥力には対抗できなかった。京都へ逃げてきた訳だから、自分は何がしたいのか壁にぶち当たるのも当然だろう。
 でも、一つ一つの付き合いを大切にしたいという思いだけが確実に在る。一期一会というふうに簡単にまとめたくはない。

 人付き合いが自分に影響を与えるなら、付き合いを疎かにするのは生きていないのと同じだろう。

 僕らが結んだ絆を自ら断ち切ってしまうのか。

2005年 8/18 本が好きな理由
                                                                                                 

 不思議の国のアリスが最近の僕のマイブームだ。
 同じようにマザーグースもなかなか見逃せない。それらイギリス童話に共通するものはナンセンスさだ。

 ここでいうナンセンスとはハナワ君みたいに「それはナンセンスだよ、べいびー」のような皮肉をこめたものではない。それらが描く世界観の心地のよい意味不明さのことをさしている。その世界観は固定していないがとても普遍的だ。つまり様子や登場人物の心象が細かく描写されているわけではないけれど、僕の脳内妄想領域がフル活動をさせられる感じだ。その文章に刺激され、勝手に様子を思い描いたり、暗に示されることを考えてみたりさせられてしまうのだ。まさにそれは啓蒙、啓発。
 特に不思議の国のアリスは調べれば調べるほど深い。有名なのはディズニーアニメ化されたアリスだが、あのように童話化されたアリスを普通に読みすすめても幼稚園児用の話で終わってしまう。実は原作には論理的ロジック、数学的なパスルが隠されており解説書なくしてはあまり意味をなさないほど複雑なものもあったのだ。そこに書かれていることが無意味ではなく意味不明なもの。そこがまたロマンなのだ。おそらく今、読み返してもなんとなくいわんとすることはわかると思う。ちょっとヒマならこれをどうそ。『プロジェクト杉田玄白』っていって版権がきれた作品を訳しているサイトのひとつ。
 不思議の国のアリスのナンセンスはあらゆるものに影響を与えて現代文学への余波も大きいと思うわけだけど、そのアリスに影響を与えているのがおそらくマザーグース。ひとつお気に入りを紹介しよう。

 『ほねとかわの おんながいた  みたこともない やせっぷり  あるひたまたま このおんな  いのりをあげに きょうかいへいった
 もんのところに さしかかり  そこでしばらく ひとやすみ  はかばに あしをふみいれたとき  みみをつんざく かねのおと
 やっととびらにたどりつき  もうひとやすみと たちどまり  なかにはいれば おりもおり  ぼくしが おごりとつみをいましめてた
 みまわして おんなはみた  しんだおとこの よこたわるのを  はなからあごへと うじむしが  うごめきでては はいまわる
 ぼくしにむかって おんなはいった  わたしもしんだら こうなるのですか?  そうですよ! そうですよ ぼくしはいった あなたもしんだら こうなるのです』<和訳:谷川俊太郎>

 本当に童謡なのかと思うくらいの意味不明さ。そう感じたならそれがナンセンスだ。何について言いたいのだろう。
中世の教会の風刺?宗教?それとも人の死??

 こういうのが僕は大好きなだ。これらの意味不明さは意味を成していないわけではない。言葉というものを120%利用して意味を越えた向こうの世界にいっちゃってて意味が理解できないのだ。決して言葉や意味という自分らで作り上げた概念を越えれなかったわけではない。
 けれど悲しいことに最近のたいていの本がこれ。泣けるとか本当にどうでもいい。僕は作者が作り上げた世界観をそのまま受け入れることは残念ながら出来たためしがないので、『泣ける』と言われる本に感動をしたことはない。なぜ僕らはそこまで受動的にならなければならないのだろう。

 僕が求める本の理想像は、架け橋だ。ドアを開けて隙間から向こうの世界をほんのちょっと見せてくれる。ほら、なんだかよくわかんないけどすごいだろ、君もやってごらん。と誘ってくれる。そして僕が頑張って見ようともするし、行くことも可能ならば辞さない。

 結局はやはりロマンだ。

2005年 8/14 思考
                                                                                                 

 ベストエフォート方式。
 
 インターネット接続のふれこみなんかで「最大100M」なんていう文章、よく見る。
 よーするに「通信速度が一番すごい状態で100Mでますぜヘヘヘ」ということなのだけれど、これってよく考えてみるとけっこう無責任な情報でないか。
 
 こういう、技術的に最高の状態を紹介しつつ、いつもいつもそうとは限らないというサービスを(特に通信に限って言うのかも知れないけど)ベストエフォート型という。その最大性能に保証はないのだ。
 サービスの内容によっては「最低どれくらいの性能が出るのか」とか教えてくれるところもある。でもでも、とにかく看板にしている謳い文句はいつも「最大〜メガ!」とかなのだ。なんかズルくないか。
 
 保証していないから、とにかくフルパワーが発動されなくとも「だっていつもいつも最大が出るわけじゃないんだもーン」という反則気味な心持ちを感じてしまう。だいたいウチのADSLは48Mだったと思うけど、そんな能力一度も発動したことないぞ(ADSLには基地局からの距離も関係するんだけど)。
 
 こんな商売を許していいものか。だって、たとえばベストエフォート方式のラーメン屋さんとかがあったらどうだ。「うまい!本気が出せる状態ならば」というふれこみのラーメン屋に、キミは入るか?・・・まあ、ちょっと入りたくもなるけど、明らかにちょっとおかしいだろう。
 あとはベストエフォート方式の宅急便屋さんはどうだ。「翌日配送!技術的には」という宅急便屋にキミは頼むか?
 
 ベストエフォート方式の医者、ベストエフォート方式の山岳ガイド、ベストエフォート方式の目覚まし時計、ベストエフォート方式のお坊さん、ベストエフォート方式の警備会社、ベストエフォート方式の自動ドア、ベストエフォート方式の冷蔵庫、ベストエフォート方式の家の鍵、ベストエフォート方式のザオリク(それってザオラル??)・・・・。
 
 最近のパソコンも並々ならぬ努力で進歩して、ホントに性能がすごい。でも、多くの家では、実際はそんなにすごい性能はいらなくて、すごい能力が無駄に余っているのだ。それがオーバースペック。
 多くのことが理解できるだけの脳みそを進化の過程で身につけながら、その事柄の多くを知りもしないで死んでいくのはオーバースペックだ。

 極めて個人的なことだけれど、考えるクセをつけようとがんばっている。考える練習が出来ていれば、いざ「本当に考える」という事態に陥ったとき、スムーズに考え、答えに向かうことが出来るからだ。
 
 「考える」ということの正確な定義はわからないんだけど、僕の考える練習で重視しているイメージは、「受け取ったままに脳に保存しない」ということだ。例えるなら何かモノを見た時、正面から見えても、そこからサイドビューを考察してみる。そんなイメージだ。「側面」というヤツはあらゆるものにある。考える練習が出来れば、大事な局面でその側面や、うまくいけば裏側が見えるかもしれない。ちょっとニュアンス的によくないけれど、わかりやすい動詞で言うなら「疑う」というのが近いだろうか。考える練習の初歩は「疑う」というところからはじめるといい。
 
 サッカーワールドカップが放送されていた。大変なブームだ。日本開催も盛り上がった。でも、ブームをブームとして受け止めず、どうしてブームになったのか、とかどうやってブームにしたのか、なんてことを考えてみる。もちろん正しい答えなどはないし、あらゆる力が総合的に働いて出来たのかも知れないけれど、仕掛けた人が仮にいると「考えて」みるのだ。
 そうすると、日本開催の10年前にJリーグがはじまったことなんかも、すべて仕組まれていたのかも知れない、なんてことが「考えられ」てくる。Jリーグという土壌から日本のサッカー熱が盛り上がったのではなく、サッカー熱を盛り上げるために、すべて仕掛けられていたのだとしたら・・・。ドイツ大会の日本の参戦決定で算出された経済効果は5000億円とも言われている。それだけのお金が動くなら、こういうことを全部全部「考えて」、計画どおりに物事をすすめている人がいたっておかしくない。
 あるいはほとんどの先進国がサッカーに馴染みがあることも見逃せない。国が国際交流の手段として、「サッカーくらいできる国じゃなくちゃ」などということを「考えて」、巧妙にしかけたのかもしれない。そんな風に考えると、あらゆるブームは素直に喜べなくなっちゃうけれど。もちろんあらゆる文化に乗る人たちは、それがビジネスの上に成立することを知ってて乗るわけだから、当たり前と言えば当たり前なのだ。
 考える練習が進歩すると、考えるという事自体が「経験」となり、瞬発的な判断力も上がってくる。過去に考えたことのある例に照らし合わせて答えを導くことが出来るからだ。考える練習をしていないと、いちいち問題に当たるたびにそれについて初めて考える羽目になる。思考力を鍛えていない人間というのは判断力が鈍いはずだ。
 つまり、考える練習を積むことで、思考は直感に近くなるのだ。そろばんをしていた人が暗算も速くなるように、長い考察を短くできるだけの「脳の処理の習慣」が身に付く。と、思う!!思考する道程の過程が近道できるのだ。社会心理学では確かメンタルショートカットって言ったなぁ。

  ・・・で、なぜ、思考力を鍛えているのかというと、せっかくの脳がオーバースペックで終わることが恐ろしいからだ。もっと古くて安いCPUでも事足りたよ!なんていう人生はまっぴらゴメンじゃないか、と思ったのだ。僕たちの脳は先祖たちの並々ならぬ努力でコンニチまで進化した。ほかの動物の追随を許さぬほどにその性能は高い。他の動物の脳の容量でもキミは全然大丈夫だったねって実際どうなん!?

 使い切りたい、脳を。
 
 誰も、死ぬ時にそんなこと「考えない」としても。

2005年 8/11 蝶
                                                                                                 

 世界はどうかわからないけれどやっぱり日本は狂っている。大丈夫なのか?⇒http://www.takarabe-hrj.co.jp/takarabe/clock/index.htm
 ちなみに今回のつぶやきは国債の話とは全然関係ないのでご安心を。


 CMでよく見るよく見るホワイトバンドという代物。ここんとこは見ないかな?まあエイズを考える「レッドリボン」や緑化活動を支える「緑の羽根」とかと同じようなノリかな。

 最初は「ああ、こんなものもあるんだなあ」くらいにしか思っていなかったが、僕の周りでもちらほらこのホワイトバンドを買ったという人の話を聞いたり、街端で見たりして、なんでこんなに流行っているのか気になり、サイトを訪れてみた。
 なるほど、ベッカムやら中田やら、その他大勢の著名人が広告塔になっているのか。イベントでもかなり有名なアーティストなどが参加していてこれは若い人は食いつきそうだ。値段は300円。近所の本屋では売り切れているそうな。僕は基本募金活動は嫌いなので買わないけれど。

 けれど、、、なんか思ったよりチャチい、、、ゴム製の「イカリング」って感じ。せっかくオシャレにアピールして広告しているんだから、もっとちゃんと作ればいいのに。あまり普段したいと思うデザインではないかも、、、
 それにセレブリティな人たちが付けているなら彼らは100万やら1000万やら寄付ったほうがいいのではと思ってしまう。

 けれどそれを買うことによって貧しい人たちへそのお金が寄付となるという募金活動的なことかと思ったらそうではないらしい。なんでも世界の貧困に対して関心があるということの表明の意味でつけるものみたいだ。ホームページ見てみたら別にこの活動はこの「ホワイトバンドを買う」ことではないらしいことが書いてある。海外のサイト「wear a white band」という箇所では「白いバンドならなんでもいい」という説明なのに対し、日本語サイトでは「お金より声を」とか書いてあるのにホワイトバンドの購入方法の説明がほとんど。そんで活動の趣旨を下の方にある「FAQ」の別ページでチョロっと書いてあるだけ。パッと見勘違いしても仕方ない気もする。「ホワイトバンドならなんでもいいよ」というよりあえて「買う」という行動をとった方が日本人には伝わりやすいのか。
 まあでもこの売上金は活動資金として使われるらしいからまあ無駄にはなっていないと考えるべきか。

 でもこのサイトの文面、他もなんかイマイチすっと入ってこない。

 「世界中でホワイトバンドを腕に巻いた蝶が羽ばたいている。この複雑系の世の中でシンクロニシティ(共時性)が発生している。奇跡、且つ必然だ。共に羽ばたこう。」

 なんか、こう、「ハァ、、、」という感じになる(僕だけか?)。途中まではわからなくもないけど、奇跡且つ必然ってあたりがどうも。やっぱりこういう市民活動団体ってその活動自体に酔いしれちゃってる人が多いのだろうか。有名人使ってオシャレなことして、キレイな言葉使って多くの人の賛同を得る為にアピールすることも大切だけど、貧困で苦しんでいる人達の現状があまり見えてこないので不安になる。このキャンペーンが終わったらあたかも貧困の事は終わったかのような、タダの「流行」という感覚に陥らないように気をつけなければいけない。

 すいません、否定的で。虫の居所が悪いのかもしれません。昔からひねくれた考え方をしているんでそれに拍車がかかっているようす。でもこういう活動自体はいいことだと思ってます。


 けれどわざわざ既成事実を作って共通性をこじつけなくても同じ時代を共にしてるだけでも奇跡ではないだろうか。

2005年 8/8 察する
                                                                                                 

 「ねぇねぇ。ゆうじ〜?今どこにいんのよー?」
 という間違い電話がついさっきかかってきて、「間違いじゃない?」って言った途端、プチンと切られた。早朝のバイトが終わって気持ちよく昼寝してるところだったのでなんだか腹立たしい。「キミは僕の精神的、肉体的な休息を奪ったんだ。謝罪したまえ」とか責める気はないけれど、せめてごめんなさいの一言は欲しかった。

 最近の世の中はどこか狂ってきていると常々思う。例えば僕はコンビニのバイトをしているのだが、早朝は朝のラッシュが他の時間帯と比べてものすごい。こっちも早く、多くのお客さんをさばかなくてはならず、高速レジになってしまいそっけなく見えているかもしれないが、ちゃんと目を見て「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」は言うようにしている。そして代金を渡して、商品をもらったお客さんはだいたい二分できる。僕が商品を渡したときに「ありがとう」と言うか言わないかだ。高速レジの中「ありがとう」と言ってくれる希少なお客さんはだいたい全体の3〜4割くらいなんだけど、言わない人はぱっと見でわかってしまう。
 言わないお客さんのほとんどはとてもおもしろくなさそうな顔をしている。他人との接触を拒んでいる様子だ。彼らは時として、代金を投げるように置いていき、商品を奪うようにして去っていく。そんな時に僕が小さく舌打をして、その客が置いていったレシートなどを細かくちぎったりして、ゴミ箱に丸めてポイしてるのは他のバイト仲間には内緒だ。

 ありがとう、ごめんなさい以外にも他人と接触したときの最低限のマナーというのがある。親にも先生にも教えてもらうものではなく自分でなんとなく学んだり気付いたりする、いわゆる暗黙の了解というやつだ。おそらく僕に間違い電話をかけてきた女の子もレジの時は無愛想だろう。彼らはなぜそれができないのか。

 日本古来の考えには、相手の気持ちを察し、思いやるという素晴らしい心がある。しかし、物量社会、資本社会化がシステマチックになるにつれ、その考えでは、やってゆきづらくなっているようにも思う。
 鬼平犯科帳によると、江戸時代といまでは雇用の考え方もだいぶ違うらしい。江戸の商店では「下女」なんていう住込みの女性を雇うものだけれど、これは長く働くことが基本である。そして5年も6年も勤め上げてくれたなら、雇い先の方でもそれ相応の嫁ぎ先を探して支度も出してくれる。下女の方でも、マジメに働けば主人が応えてくれると信じて陰ひなたなく働く。そうしあうことを「疑うものとていない」という素晴らしさがあった。
 論じあって決めるのではない。「そうしてあげたい」「そうするのがスジだ」という互いの察しと思いやりが生きているのだと思う。そしてそれを相手に期待する前に自分がやってみせる。そうすることで相手もやってくれる。お互いにお互いのことを察する。それが「思いやり」というものだろう。
 
 今は、とにかく勤め手も働いてみてダメなら辞めたらいいやと思う人が多いし、雇い手もダメなら辞めさせて次を雇えばいいやと思う。だいたい会社はそのままでも、雇い手のトップがいきなり知らない会社からやってくるなんていうことが常識の時代である。システム化した会社は利益も多重化して、誰のため?会社?社長?株主?上司?お客?自分?誰に奉公するかなんていうのも見えづらい世の中になったのだ。

 みんな不安なのだろう。そして思いやりづらい世の中で思いやりを貫き通すか、思いやることが出来ないので自分からの接触と外界からの働きかけを拒否するかに分かれてしまう。人を信じるか信じないか。
 
 江戸時代まで、ほとんどの町家には鍵がかかってなかったり、まどが障子だったりするのだって、日本人が察しと思いやりを持つからだ。開ける方が気を使って対処することができるからだ。開放的でいられるのは、相手の心持ちが開放的で、ちゃんと根本的なところで信じてあげられるからだと思う。
 
 友達や知り合いについて話すとき、「周りが見えていない」とか「自分のことしか見ていない」と批評することがある。そう批判されてる人たちも思いやりが出来ていない人たちなんだろう。優しいとはまた別である。自分のことでいっぱいいっぱいになってしまって、場の雰囲気や相手の気持ちを推し量ることが出来なかったり、自分の主観を押し付けてしまったりする。彼ら彼女らに思いやる脳内のキャパシティがないわけではない。思いやることを知らないのだろう。

 
おじさんおばさん世代が若者を批判する原因はここにあり、また若者の見本となるべくおじさんおばさん達も高度経済成長で確立した資本主義経済に組み込まれてしまっており、自分自身の殻に閉じこもり周りを見ようとしていない。そして思いやれないヒトたちがこれからもどんどん増産され続けるだろう。

 僕のモットーは思いやりであり、これからも心がけていこうと思う。どうすればいいのかはまったくわからないけれど。



 そういえばブログっぽいところでここの更新状況を報告したりしてます。会員制らしいので興味がある人は登録して「あだこ」で僕を探してみてください。http://mixi.jp/home.pl

2005年 8/6 n×妄想スペース=泣ける度
                                                                                                 

 泣ける映画や小説がある。けっこうそれを見て泣く人がいるらしいけど、僕はそういうふうに作為的に作られたことが臭う作品は構えてしまって、あまり見ないし、見ても泣くことはない。ふつうの作品でもそれは同じだ。ここは泣くんだろうなと思うと究極的に冷めてしまう。
 でも割と涙が出ないだけで涙腺が緩むことは多く、スラムダンクの最終巻で桜木と流川のシーンやドラクエ5のパパスが死ぬところ、アルマゲドンのスタッフロールなどではウルウルしてしまう。

 でもこの「泣きつぼ」というのは人によってちょっと違うらしい。人にとって意外なものが泣けたりする。

 見た人みんなが泣いたと言う「いま会いにゆきます」という邦画がある。最後、お母さんの竹内結子さんに時間が来て帰る時、それに間に合うよう中村獅童くんが走るシーンがこの映画の泣きツボだ。察しの通り僕はこのシーンで冷めてしまい、鼻水をぐちゅぐちゅいわせてる観客の様子を見たり、このシチュエーションって「黄泉がえり」の使いまわしじゃんとか思ったりして泣かなかったのだが、実はこの映画に僕がウルウルしてしまったシーンがこの後にある。
 中村くんがぜぇぜぇいいながら走ってる間、この映画の真の主役である祐二君(役者名は忘れた)が「パパ遅いね、来ないんちゃう?」みたいなことを言い、「パパは絶対来んで」的なことを言い、息子を抱きしめるのだけど、僕がうわぁと思ってしまったのはここでお母さんの指から結婚指輪がなくなってること。劇中で結婚指輪をはめるシーンがあり、以来ずっとはめてるわけだけど、帰るってところで急に外してしまっている。このことについて何も触れることはなかったけれど、指輪を外して家に置いていく心境を考えて切なくなってしまった。普通なら唯一の思い出のものとして持って行ったりするだろうに。何を考え、誰のことを想っていたのだろう。

 ぼくはそういう風なのが好きだ。全面に泣かせようとしてくると想像の余地がなくなってしまうからだろうけど、スペースが余っていたりすると大いに妄想を膨らませてしまう。
 スラムダンクの最後の無声のシーンもそうだろうし、ドラクエは心境描写が全然ない。アルマゲドンのスタッフロールでは娘の結婚式の場面が描かれているけど、式場では宇宙で散ったパパの写真が飾ってある。

 ・・・なんか書いててもなんか切なくなってくる。そういえば音楽にもそういう魔力が宿っていることが多い。

 僕の傾向としてはやはり妄想スペースが大きければ大きいほど、泣ける度も高くなってくる。妄想すればするほど、その出来上がった二次的な世界では自分が色濃く存在することになり感情移入しやすいのだろう。以前書いた宇宙の話でもそうだ。
 一般論でも、多少はそのことで説明できることはある。他人の心境を把握することは自分にとって雲を掴むよりも難しく、世の中でもっとも未知なものだと思う。それだから相手の心を妄想してしまい、仕草の一挙一動で一喜一憂してしまう。


 1年前の日記でも触れたが、英語でsheという代名詞がある。日本語では普通は「彼女は、が〜」と訳させるが、実は船や海、自然のものの代名詞として使われることがしばしばある。昔、船乗りはほとんどが男であり、天候や風次第で船の操作は容易でなく、海は操作さえも不可能だったからとなんかの本で読んだことがある。
 しかし単に簡単には言うことを聞いてくれないという皮肉的な理由で使用されていたのだろうか。僕は彼らに深い敬愛みたいな心もあったのではないかと思う。海は何を考えて自分たちを苦しめているのかわからない、船は風や湿気しだいで気分が変わりやすい。けれど男たちはそんな未知なる面に魅かれたからこそ海に出続けたのではないだろうか。そして苦しめるけど惹かれる、そんな家で故郷で待ってる自分の女たちに、懐かしさも込めてそれらを重ねてsheと呼んだんではないのか。

 やはり今も昔も原動力はロマンなのだ。

2005年 8/2 今日の会議模様
                                                                                                 

 昨日書いたようなことを考えながら髪を切ってもらっている最中、突然夕立が降ってきた。雨は激しい勢いで、短時間のあいだにどっと降る。切り終わった後、僕は空を見上げた。雲がもくもくとわいている。高度3km、積乱雲。

「でも、全部を見たわけじゃないんだろう?」
急に声がした。振り返ると、一人のおじいさんがへんてつもない家の前に椅子を出して宙を見て座っていた。

「地球が丸いかどうかだって本当のところはわからない。」おじいさんは続ける。
「なんの話」
「きみの話だよ、
きよたか
「どうして僕の名前を知っているんだい」
「知っているからだよ。キミは全てを知った気になったのかぃ?でも、世界はキミが思うよりまだまだ広いんだ。」

おじいさんは二日酔いみたいにふらふらと立ち上がろうとしている。
「世界がコレだけと決めつけてしまうと、小さな大人になってしまうよ、
きよたか

椅子からやっとの様子で立ち上がると、おじいさんは空を仰いで儀式めいた動きをはじめた。
きよたか、キミは雨の降る仕組みを知っている。」
「知ってる」
「雪の降る仕組みも、ヒョウの降る仕組みも」
「知ってるよ」
「ふふん、面白くない子供だ。じゃあイワシは」
「は?」
「イワシの降る仕組みさ」
「なにを言ってる」
「なにってさっきと同じことを言ってるのさ。世界はキミが思うよりもまだ広いんだって」
「なにを・・・。」

気付くとおじいさんはもうどこにもいなかった。僕はイワシが降ったら生臭いだろうなとしばらく考えていると、様子を見ていたらしい少年を見つけた。

「キミ、イワシの降る仕組みを知っている?」
「仕組みは、竜巻説が有力だね、昔から史実や記録でもイワシやヒツジ、カエルやヘビなんかが降ってきたって話はけっこうあるらしいよ。」

コイツはどこからそんな話を仕入れているんだ。と少年の話を笑っているうちに、僕のむなしさはいつのまにか消えていた。

イワシまで降るんじゃしょうがないもんな。


という脳内会議の模様をお伝えしました。

2005年 8/1 定義
                                                                                                 

 ってまぁ書いてるのは深夜2時過ぎ。今日も晴れ渡った空に狂ったように星がまたたいているんだろう。街の灯にジャマされて見えないけれど。137億光年の広さの宇宙。果てのある宇宙。

 バレエは空を飛ぶことを魅せる芸術だと、誰かが言っていた。空を飛んでいるように見せる芸術、そう、素晴らしいバレエは本当に飛んでいるようだ。それは他の芸術やスポーツにも幅広く言える。人々を感動させるものやプレーには無重力を感じさせることがしばしばある。でも、バレエは本当に飛んでは行けないし、本当に飛んでもらっては困るのだ。僕たちは進化のはじめから重力に押し付けられて安心している。飛べないから安心して飛ぶつもりの練習を繰り返していられるのだ。飛べないと思い込んで。

 宇宙空間ではバカバカしいくらいたくさんの星たちが当たり前のようにプカプカ浮かんでいるというのに、長い年月をかけて空を飛ぼうと訓練するバレリーナも、地球に落下してしまう。

 重力と同じように僕らを生まれたときから縛りつけるものがある。それは言葉だ。学問を勉強する上で、様々な言葉、表現方法を体得し、知識を得て、様々な考え方に沿って世界を見ることが可能になる。しかし、考える範囲が言葉が定義された中だけに拘束されるのではないかという危機感にも襲われる。

 僕は漫画が三度の飯より好きなんだけど、物事をカテゴリー化せずにはいられないのが人でそれでもそのことに矛盾を感じていることを最近学ばされた。最近、買ったナウシカではそれぞれがそれぞれの信じるものに固着して戦っていた。ナウシカは蟲や自然と人の共存、ある国は自分たちの国民を、それと敵対する国は自分たちの宗教のために戦っている。ストーリー展開上ナウシカがもっともらしく描かれているのだけれど、それが一番正しいわけでもなく、その渦中で彼女に対して様々な問題が浮上してくる。それぞれが正しくて、それぞれが間違っている。
 20世紀少年の新刊では正義の味方と悪について書いてあった。正義の味方は道徳的価値観や周りの期待通りに動いて実現させていけばなれるが、悪になるにはそれらを全てぶち壊さざるえなく、自分の信念を貫くあたりではこちらが正当な動機であるような感じだ。
 
 こんなふうに正義だ悪だで正悪が分けれるわけもなく、単純にカテゴリーでわけれるものではない。愛すると好きの違いなんで誰も明確な言葉で言い表せないし、感じ方は人それぞれだし、本当にそこに違いがあるかどうかも不明だ。セミロングヘアーとロングヘアーの違いは?雑誌による区分??ドキドキと好きの違いは?生理的情報か感情??男と女の違いは?生物学的区分??どれも正解であるような気もするし、不正解であるような気もする。100点だけど120点でない感じ。言葉の定義によって考える思考世界も狭くなってしまう気がする。勉強っていいことなのだろうか。

 地球が卵だとするならば、大気の部分はそのカラくらいの厚さだという。僕たちは大気がないと生きられない。つまり僕たちは卵のカラ程度の薄っぺらい世界を這い回っているのに過ぎないのだ。みんな旅をする。今は寺や神社の多い古都に住んでいる。その前は大きなビルがところ狭しと乱立する中心の街。ちょっとの間、朝に散歩すればすずめの鳴き声が爽やかな閑静な外国の街にも住んだ。そんな「世界中」なんていうものもすべて、卵のカラの中だ。

 宇宙にでも出ない限り、それだけ行っても卵のカラの中。

 このむなしさはなんだろう。世界なんて知らない方が良かった。地球が丸いなんてこと知らなければ、お盆のカタチをした世界の果ては滝になっていて、その下には魔物がいる。盆はゾウが支えていえ、ゾウはカメに乗っている。じゃあそのカメは何に乗っているのだろう。さらに大きなカメに乗っている。そんな地球で良かったのだ。それなら、もっとずっと世界は充実するのに。

 もしかしたら飛べるかもしれないのに。

 続く?

今週のBGM I love you 尾崎豊

2005年 7/25 男のロマン
                                                                                                 

「泣きたいくらいに宇宙が好きだ

とまではいかないけれど」って日記を2年くらい前に書いたけれど、あれから時間も経ち、心境も変わり、このごろは「泣きたいくらいに宇宙が好きだ」といってもあながち冗談でないというくらいにはなってきた。
 とにかく宇宙に行ってみたくなった。衛星軌道まででいいからとにかく宇宙に行き、そこから地球を見てみたい。地球の、普段の自分が這いずり回っている辺りを見てみたいのだ。
 
 今、試験期間中の真っ盛りで今日もテストだった。ちなみに科目は「神話学」。ぼくが専攻してる心理とはあまり関係がないけれどそういうものにはとても興味があって、とってみた。家庭教師の都合で途中から出れなくなっちゃったけど・・・。

 神話や宇宙、海底に強い憧れを抱く。なんだかよくわかんないけどすごいのだ。未知なるものにドキドキする。とても気持ちが沈んでるときでも、そういう特集をしてるテレビ番組とかを見ると不思議な気持ちのほうが圧倒的に勝ってしまう。昨日とかそんな感じ。

 宇宙や海底の広さの前には、日常の人間の世界に持ち込まれているあらゆる思想や哲学や心情などなどはきっとちっぽけでどうでもいいものになるのだろう。それが大事じゃなくなるわけじゃないけれど、とにかくつまらないものに思えてくるだろう。現に今、ちょっとつまらないなと思いはじめているくらいだ。人間的な限界や、勉強不足や、ものぐさな性格や、時代や、技術や、都合などなどのつまらないものをどれだけ片付けたら僕は宇宙に行けるのだろう。
 
 僕は幼稚園から小学校のころにかけて、自分は理系だと信じていた。将来は科学者や獣医になることが目標だった。けれど中学生時代に早くも数学につまずき、本を読んで心理に出逢い、進路は大きく軌道を外れた。10歳までの僕を見て、十数年後の僕を想像できる人間はいなかっただろう。
 宇宙や神話の素晴らしさを熱弁しても女の子からは「へぇー」とか「あぁ・・うん・・・・」とかなんかうすい反応しか返ってこない。けれど話せる男子は「わかる!!」という期待の反応が返ってきて宇宙人の存在や宇宙の限界、光の速さから相対性理論をかるくかじった話まで1時間以上繰り広げられる。
 現代物理学の基盤となる相対性理論によると、物体は加速するほど時間はゆっくり流れ、光速に達すると時間は止まる。そしてそのまま現在地に戻ってくることができたら自分は若いまま未来へ行くことができる。つまり非可逆的なタイムスリップが可能だのだ。しかし光速に達することはどうもありえないらしい。これについては詳しく書くと全然面白くないので省くけれど、それがどうやら速さに関しての、僕たちの住んでいる箱庭の限界ではないかと思うのだ。僕たち私たちの住んでいる世界には無限の可能性が潜んでいるのかというと、そうでもないらしい。

 光より速いものはない。ペガサス流星拳もスタープラチナザワールドもブルマの父さんが改造したナメック星人の宇宙船も、この世界では不可能・・・。
 マリカーの世界でも速さには限界があり、マリオサーキットを10秒以下で走ることは不可能である。けれど最高の速度に達するには長い道のりが必要であって、普通にゲームをしていたなら、なかなか箱庭の限界を意識することなどない。同じようにこの世界の限界を意識することなど、滅多にはないだろう。オリンピックでもなんでも、加速は続き、記録はどんどん伸びている。
 
 でも、限界はある。それは人間の限界でなく、住んでいる箱庭世界の設定の限界なのだ。しかし無限にロマンを抱くのではない。感じるロマンの大小は限界までの遠さである。だからマリカーも10年以上たった今もはまれるし、スポーツも記録との戦いに明け暮れる。それは数式などはどうでもいいのだ。大切なのはロマンなのだ。

 ロマンこそ人間の原動力だとぼくは思ってる。だから毎週木曜更新のつもりだったけど更新しちゃった。

2005年 7/21 ある夏の夜
                                                                                                 

 梅雨があけて本格的な夏な日々。今年は例年と比べて記録的な猛暑になるそうで。例年、例年いうけど例年っていつだかまったくわかりません。まぁどっちにしろ梅雨だったり、アイスを食べたり(冬でも食べるが)、見当たらないエアコンのリモコン探したりすると、もう夏はすぐそこまで来ている。でも、そんなに夏は好きじゃない。
 「好きじゃない」って文字で書くと、早くも「キライ」の匂いがしてくるけど別に嫌いじゃない。好きじゃないだけだ。難しいけれどとにかく嫌いじゃないけど好きじゃないとしか言いようがない。冬に比べて圧倒的に魅力の少ない季節、それだけ。
 もちろんキライじゃないから楽しいことはたくさんある。夏で好きなことは、午後の日陰。ヒマな午後に、建物の日陰に入ってセミが少しこもって聴こえるのが好き。それからぼんやりしているうちに夕立が来てくれたら音響的に最高だ。夏の雨にはしっかりしっかり始まりと終わりがある。梅雨のようにぼんやり始まってぼんやりぐずぐず終わったりしない。それもまあまあ好きだ。
 
 でも、残念ながら冬にはかなわない。僕は「あったかいもの」が好きだから、あったかいものが鬱陶しくなる夏はどう考えても相性が悪いのだ。
 暖かい毛布が好きなのに夏はくるまれない。あったかい肉まんが好きなのに夏はコンビニに売ってない。あったかい人が好きなのに夏は暑苦しい。あったかいうどん、あったかい鍋、あったかいコート、あったかいブーツ。夏はそれら全てが何の役にも立たない。
 
 愛したいものがどうしても愛せないという辛さ。こんなに苦しいことはないだろう。夏に冬のことを思い出すよりも、冬に夏のことを思い出す方が楽しい。つまり、その瞬間は冬でいる方が楽しいということだ。今、高校生に戻りたいのと思うのも一緒。
 
 余談だけど(けっきょく全部余談なんだけど)、僕の自殺願望もそれに近い。もちろん死ぬのは怖いわけだけど死んで「現世に戻りたい」と思いたい。もっとみんなが好きになるように。僕って片思いが好きなタイプなんですねー。

 何はともあれ、とりあえず青春したい。海岸で沖に向かって大好きなこの名前を叫ぶようなイメージで。
なんだかわからないけど譲れないものがあって、とりあえずそれを形にしたくて、守りたくて、でもそれが何かはやっぱりわからないから悩んで、でも何に悩んでいるのかもやっぱりわからなくて。苦しくて、押し殺して、それでも溢れる余剰のエネルギーで友達と騒いで、語って、そして恋をして。特に意味がないものに意味なんか求めずにがむしゃらに取り組んで、汗を流して、友達と笑って、悩んで、本気で喧嘩して、心を通じ合わせる。そんな強烈な刹那な切なさ。

 ぼくはそういう時期を変な意地で逃してしまい、その分を今、取り戻そうと頑張るんだけどもやっぱりだめで。これって過去に縛られてるってやつ?まぁいいや、大学生活で楽しめることだけを楽しもうって思うけど、心臓を鷲づかみにされて揺さぶられるような経験もなく、楽しいんだけどどこか空虚で、時間だけが加速度的に過ぎていって焦る。でも指をくわえて見守るしかなくて、そんな自分が一番歯がゆくて。これはおもしろい!って思ってもいざ取り組んでもどこか本気になれず、マンガみたいに「おまえには譲れるものがないのか?」と師匠に聞かれても、「いや、別にないっすねー。」って感じ。人間関係も妥協の積み重ねで、不満があっても言えず、なぁなぁな付き合いが居心地が一番良くて、そんなぬるま湯につかってる自分はどうなんだと自問自答してみるけど、ぬるま湯から出る勇気もエネルギーもなく、浸かっていれば風邪をひくことはわかっているのに。 自分は「自分は平凡ではない」と思っている。口に出してそれを言う自信なんてないけどね。こんな感じでしょ?

 確かにぼくらは「何か」がおこりそうな予感の中にいるけど、結局その「何か」が何であるのか、明確な答えが見出せないまま毎日は過ぎて行く。結局核心が見えないものだから一歩も踏み出せず停滞しては酒を飲んでいる。

2005年 7/14 眠る
                                                                                                 

 なんか根暗仲間がブログを作った影響で更新したくなってきちゃいました。この調子で夏休みは作りかけの小説を完成させてアップしようかな。誰が見てるか知らんけど。

 最近はテスト前でパソコンを立ち上げる率も高くなってきてる。ってかレポートをやろうかと思ってたのになぜか更新中。そしてまだ10時なのに睡魔も襲ってきてる。テスト前だから友達に勉強を教えてばっかりで自分の勉強は睡眠時間を削るしかないのだ。

 人にはそれぞれその人の特性を表す三大形容詞というのがある(と勝手に思ってる)のだが自分の三大形容詞は「だるい・眠い・めんどくさい」である。朝起きた時点でとりあえずもうだるいのだ。「うひゃー、なんて爽やかな朝なんだこんちくしょうっ」って経験は1年に1回あればいいほうだ。そしてすすんで自らやってるように見えることも本音を言うとめんどくさい。でも乗りかけた船。最後まで漕ぐしかない。だからときどき漕ぐのがめんどくさくなって水面に飛び込みたくなることもしばしば。

 主な原因として一日の平均睡眠時間が挙げられる。最近は3〜4時間だ。前は昼寝を1時間ほどしてたがここんとこなくても平気だ。だからといって眠くないはずがない。かなり眠い。しかしやる気さえあれば耐えられるものなのだ。まぁよく限界はくる。なんかあるとキれそうになるし、物事に追われる夢ばかり見るし、金縛りにあうし。

 だからやっぱり睡眠時間が短いのは辛い。いつもいつでもたっぷりばっちり眠って暮らしたい。
 ごくごく個人的に、睡眠時間の長さによって睡眠を区分けすると、8時間以上眠る「ヘブンズスリープ」、6時間から8時間眠る「グッドスリープ」、4時間から5時間数10分眠る「ミディアムスリープ」、3時間数10分以下の「デッドスリープ」に大別される(ってかたった今した)。
「グッドスリープ」圏内はさらに細かく分けるべきだという意見も(体内には)あるのだけれど、まあ大別だから、こんな感じ。
 
 体調的に一番よいのはもちろんグッドスリープであって、それより長い「ヘブンズスリープ」ともなると、寝すぎてちょっとカラダがギクシャクしたりする。なんだかけだるい感じがそれだ。でもいきなり1日中あるスポーツをするなどの激しい運動の後は「ヘブンズ」によって極端に体力を回復させねばならないという時もある。
 
 そして短い睡眠時間は本当に辛い。僕は眠りが短いと性欲と食欲のキャパを睡眠欲が乗っ取ってしまい、眠らないと食べられないという悪循環に陥ってしまう。人間、食べて寝ないと回復しない。体力は減る一方で、しかも寝られない時というのはたいてい体力を求められている時なのである。あああ辛い辛い。
 
 眠りの「長さ」と共に「深さ」が重要であると人は言うのだけれど、「深さ」というのが意志的にコントロールできるのかどうかは個人的にはわからない。もしも深さがコントロールできるのなら、おそらく「深さ」は「長さ」と同じく回復力に比例するのだろうから、「長さ」が半分でも「深さ」が2倍なら、同じだけの眠りの量ということにできるのだろうか??そしてそれをコントロールすることは可能なのだろうか?それをもしも、もしも可能にしたのなら、たぶん人生に勝つことが可能だ(?)
 
 前に考えたのは、「リポD増力論効果」というものだ。早口言葉のようだけれどマジメに考えたのだ。肉体疲労時にはリポDを飲んで栄養補給をしたりする。リポDの供給でカラダは一時的にパワーアップしている(ような気がする)。つまりドーピングではないけれど、リポDの分だけ本来の自己能力は上乗せされているはずだ。わかんないけど持久力とか、瞬発力(?)とか。
 それでは、眠る直前にリポDを飲んだらどうなのか。リポDによって「睡眠中の回復能力」を上乗せして、短い時間に驚異的に回復するということはできないのだろうか!?
 まあ、多分無理なんだけど。興奮しちゃってかえって眠れないとか。
 
 とかく眠っている時間はもったいない気がする。やりたいことが多すぎる。でも眠らないと1日は終わらない。


最近欲しい物:アイポット

2005年 7/7 欲しいもの
                                                                                                 

今日は七夕!欲しいものをお願いする日です。
ぼくは冷蔵庫と扇風機が欲しいです。お願いします。

先日、ずっとほしかったスーパーファミコンをゲットしました!!
ここんとこずっとマリオカートをやってまっす。レインボーロードを1周20秒で走ります。
友達が来たら聖剣2を3人でやります。その日は徹夜です。次の日の学校はお休みです。

で、なんだかいまニュースで、女性の監禁で逮捕された男の人と、押収されたアダルトゲームソフトとの関連性を調査するといっている。そんなにわかりやすい話があるのだろうか。
 たとえば僕が急に刃物で人を切っちゃったりしたら、やっぱりウチのスーパーファミコンが押収されて、「あーやっぱり聖剣で『マナのつるぎ』なんて刃物を装備してますよ、しかもレベルが最大ですよ!この影響ですね!おお怖い怖い」とかいうことになるのだろうか。そんなアホな。
 
 テレビゲームの悪影響がよく叫ばれている。ゲームをたいしてやらない人たちが叫んでいるのだ。
 「判断力の弱い若齢者に悪影響」というきめつけは、ゲームに取り組んだことのない大人が、ゲームよりも魅力的な文化を生み出せないゆえの遠吠えに過ぎない。
 
 さらに補則的に「目が悪くなる」とか「ゲーム脳になる」などという「悪い」という単位はおかしなものだ。悪いとは身体的なことのみで決定しない。
 例えばタバコが体に悪くとも、タバコがないとやっていけない人はいるのだ。タバコというものに精神的な部分を支えてもらうからだ。だから喫煙者はタバコが100パーセント体に悪いと知っていても、なおかつ周りの人間にさえ100パーセント害悪であると知っていても、喫煙をやめたりしない。そして非喫煙者もそれを理解するからこそ、被害者であっても完全に排斥することはできないしするべきでもない。タバコがないとダメという人間がいるのだと、僕は長年喘息を患いつつも思う。だって「カラダに悪い」ってんなら電車に乗らず、クルマに乗らず、コンビニでご飯を買わず、憎しみもない、戦争もない、ああ、みんなみんな家族だネって思いたいけどそんなことは無理無理!!っていう風にちゃんと結論出して生きているはずなのだ。
 
 ゲームや、インターネットというのは、どういうわけだか、悪い話になるとにわかに盛り上がって悪い部分が取り沙汰されるように思う。
 まあ、どんなものでも悪い話の方が盛り上がるものだけど、いい部分の方が多いからここまで繁栄したのではないかと思うのに、美談が成立しにくいのは「影響」などという曖昧なものが、悪い場合は本人から語られないために生じるのではないだろうか。「ゲームっていいですよーホラこんなとことかあんなとことか」ってあまり聞かないし、言う機会もないし。
 
 そう、「いいこと」というのはだいたいが「持続的展開」にあるので「いい話」には語る機会が少ないのだ。「悪いこと」は事件や事故で堰を切って発言されてしまう。
 たまにはゲームのいいことを言ってあげたい。僕にとって、テレビゲームというのは小説に近い文化的なものだし、テレビやラジオのようなスポンサー商業主義的なおしつけも少ない安心した文化であると思う。なおかつ小説よりも参加していくインタラクティブ性があるし、テレビのように受動的でなくいられるから、ぼんやり時が過ぎるなどということもない。
 
 そりゃあ悪いゲームもある。それは出来の悪いゲーム。いわゆるクソゲーというやつだ。それは小説だって雑誌だってなんだってあるし、テレビに至っては僕の趣味でいうとほとんどは面白くない。でも、種類がいろいろあるから成立する。それはいろいろな種類の受け手がいるからこそ必要なのだ。大半が「できが悪い」「趣味が悪い」といっても切り捨てていいものではない。多数決は正義ではない。
 
 アダルトゲームもきっとこれからもあっていい。猟奇的な作品も、人道的におかしい作品もあっていい。人間には普通、ちゃんとリミッターがついていて、見境はつくのだ。僕は日がな一日ドラクエをしていたって、隣のうちのタンスを勝手に開ける勇者様になりきったりはしない。
 
 「ゲームをやってて犯罪に走る」っていうのは要するに「ゲームをやってて犯罪に走る程度の常識、判断力、道徳の持ち主だった」という、その本人への評価であり、ゲームはちっとも悪くない。いいものは学び、悪いものは拒絶する。いつだってなんだって、そうやって生きなきゃどっちみちダメじゃないか。
 
 とにかく「ゲーム=悪そう」というひとくくりがなんとなく許せない。この前友達から借りたゲームソフト新たに購入した中古ソフトは「セーラームーンS 主役争奪戦(ものすごい難易度が高かった)」、「魔法陣グルグル(某マンガのゲーム版、あまりマンガのようなギャグはないが、BGMがなんかいい)」。欲しいソフトは「シムアース(ガイア理論による地球作成シュミレーションゲーム。ものすごい)」の3本。ゲームは悪くない。その気になればガイア理論だって学べるんだ。
 
 古いゲームなので、ガイア理論シュミレーションが200円。ほらほら、ゲームはこんなに素晴らしいよ。

 そしてもちろん犯罪はダメ!!絶対!!

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2005年 4/29 旅立ち
                                                                                               

妹が旅立ちました。
オーストラリアに。留学するそうだ。世間知らずな妹が一皮向けてくれるのだ楽しみですね。

いろんな経験をたくさんするということは良いことだとは前々から言ってるけども
別にそうじゃなくてもいいんじゃないかと思ってきた。
ただ、自分のやりたいことだけをやっていられればそれは幸せなんじゃないかな。
大切なのは自分が幸せかどうか思えること。

5月も近くになり、新歓も落ち着き、夜にバイトもあまり入ってないから
家でのんびりと時間を過ごすことが増えてきた。
友達から遊ぼうと誘われてもなんとなく断っている。まぁ、次の日の朝が早いこともあるんだけども。

そんな日の寝る前には、本を読んでいる。
理由なんか別にないけど、自分の状態を言い表すと活字に飢えてるそんな状態。
4月だけで10冊近く読んでます。
ちょっと前までは吉本ばななや村上春樹にハマッてたけど、最近はなんでもいい。
あまりこだわりはないけれど、いつも文庫本じゃなくて新書を選んでる。
なんかそのほうが重量感あって『本!!』って感じするしね(笑)
あっあと日本の小説に限ります!なんか外国人の考えてることはわからん。
日本語特有の表現とか単語を使いこなしてる作家さんが好きなんですよね。
まぁそんなかんだでいい本あったら教えてくださいな〜♪

2005年 4/18 京都                                                                                 

専門の授業が大幅に多くなり、授業は楽しくなってきたけれど、
逆にサークル、バイト、人間関係が重荷なってきたこのごろ・・・。じゃまなんだよ、おまえら〜!!

だいたいの1日のスケジュールは
AM5:00起床
AM6:00バイト開始
AM10:00バイト終了
AM10:30授業開始
PM17:00サークル開始
PM19:00家庭教師開始
PM21:00家庭教師終了
AM0:00友達とご飯食べて帰宅。
AM0:30翌日の支度をして就寝

バイトとサークルがなければどんなに楽しいか・・・。
起床時間とか受験生活のときと同じやん・・・。

そこで基本は日曜がオフなので京都観光にはまってます!
清水寺(紅葉と桜の季節は夜にライトアップ♪)、金閣寺(友達のうちがすぐ裏)
銀閣寺、龍安寺、妙心寺(学校に行く時チャリでつっきったりする)、知恩院、京都御所(散歩に最適、ベンチで寝たりした)
三十三間堂(一番好きな場所☆)、八坂神社、高台寺、二条城、天竜寺、北野天満宮
これらの有名所は1回生のときにほぼ行ってしまったので最近はマニアックな穴場探しです。

特にこの前、発見した千光寺という場所なんですが、寂れててものすごく小さい場所なんだけど
嵐山の奥にあるおかげで、そこからは京都市が一望できて、だいぶいい雰囲気でした♪
観光客もそこそこなんで、修行中のお坊さんの兄ちゃんと2時間くらい話をしたり、
昔の資料を見せてもらったりして、だいぶ時間を忘れました(笑)

京都はもっともっと探せばいろんな場所があるんだと思って、ますます京都が好きになってきた!
就職活動とかしたくねー。ずっと京都に住んでいたい!!

今週のBGM 『海』ケツメイシ
今週の一言  『心に、勇あるときは、悔やむことなし』・・・千光寺にて

2005年 3/30 19歳になりました
                                                                                                




先日26日に誕生日をむかえ19歳になりました!
ちょうどその時、サッカーのイラン戦で日本が同点ゴールをきめてました。すぐに逆転されたけど(笑)

みんなは誕生日の夜ってなにして過ごす?
ぼくは25日の夜から小学校の友達二人が京都に来てくれたので、サッカー見ながら過ごしました!
やつらは3泊4日もしていったのだけれど、いろんなことを語らいました!
別れのときは思わず涙がでそうになりました。でなかったけど。

周りの友達に聞く限り、小学校とかの友達とまだ連絡がとれること自体がすごいらしい。
そんなもんかねぇ?
ただ「あのアホぅはなにやってんやろ」と思って連絡をとってるだけなのに。
人付き合いとはやっぱり不思議で難しいものです。


今週のBGM 『LET IT BE』
今週のひとこと 『ハッピーターン』・・・・サークルにて

2005年 3/21 ただいま京都!                                                                            





実家(東京)に帰ってきました!!
と言ってもこれっぽっちも親には会わず友達の家で過ごしていました(汗)だって親に会いたくないんだもん。
そして久々に大勢の旧友たちと会いました☆同じ学年だったやつらや小学校の友達、そして後輩たち。
今回の帰省は後輩の卒業式は主な目的だったんで達成できて満足っす。
だってもう二度と会えなくなるようなやつらばっかりだからなー。

一生会わないんだろうな。

東京に帰るたびにひどくいろんなことを考えさせられます。
最近、「結局おれって何がしたいんだ!?」という考えに乗っ取られたけれどそのへんも答えが今回の旅でわかってきました。
大切なのは『覚悟』。中途半端な覚悟で物事に手を出したらいけないね。

次にみんなに会えるのは夏かな?
今度こそもっと長い間いていろんな人と会いたい!!

今週のBGM 『さくら』ケツメイシ
今週のひとこと 『稼働率150%!!』・・・友達の家での夜の語りにおいて

2005年 3/11 たくさんの自分
                                                                                                 

な、なんだこの半端ない忙しさは!?
今現在、ぼくはいろんなものに手を出しすぎて大混乱な日々です。
例えば・・・

バイトが某有名コンビニと家庭教師で週4。
サークルとは名ばかりの全国大会にも行っちゃう部活。練習は週4回くらい。
さらにそのサークルに広報的な役職についてしまって京都中の大学に知り合いが増える始末。
4月から入ってくる新入生の世話役のオリターという大学の自治体。
バイクの教習。この前、おもいっきりこけました・・・。

い、忙しすぎる!!これに加えてフツーの友達付き合いもあっからなぁ〜(汗)
大学は入ってから1年で電話帳が150件くらい増えたし。

こう、いろいろなものに手を出していると、不思議な気分になってくるものです。
例えば、昨日は同じ学科の友達の誕生日パーティーを夜遅くまでやって、
少し寝たあと、バイクの教習に行き、チャリをこぎながら昼飯をほおばり、
サークルに参加。そして途中に抜けてバイトへ。そしてオリターの企画書を練りつつHPを更新!。

いろいろな場に応じていろいろな自分を作ってる自分にびっくりです。
大学の友達と会ってるときの自分とサークルの自分はまた別モンだし。
そして自分のいろんな面を知れてかなり楽しいです。

もっといろんなものに手を出して、自分をどんどん知っていきたいなぁ。

今週のBGM『心の旅』
今週のひとこと『今日から君はおでん大臣だ!』・・・バイトにて。

2005年 2/17 お久しぶりです。

なかなかホームページの更新の仕方がわからなくてとうとう作成ソフトを買ってしまいました。
さ、財布が厳しい・・・。
これからは週に1回程度こうしてトップに自分のつぶやきを書いていこうと思います。

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