まぁ特に意味はないけれど、自分の中で整理するためにも個人的な恋愛に対しての考えを書きます。

共感できない人も大勢いるだろうけど、こんな考えもあるのかと、心のはしっこに留めておいてください。

 

さて、なにから書き始めようかなぁ

けっこう、恋愛っておれ的にフィーリングなんだよね。

『好き』だとか『付き合う』だとかに良く定義をつけたがってる人をよく見るけど

そんなの考えてても意味あんのかなぁ。

ってか、なんで『好き』かとか、そんなこと聞かれても「好きだから」としか答えようがないだろうな。

なんか具体的に説明される方が気色悪い。

ってかいちいち分別するような恋は恋じゃない。

分別を忘れないような恋は、そもそも恋じゃない。

『友達』っていうのに定義がいらないように、恋愛にも定義はいらないと思うな。

自分の中で『好き』だと思ったら好きなんだろうし、

『付き合いたい』って思ったら『付き合え』ばいい、

『付き合ってる』と思ったら、それは『付き合ってる』んだろう。

 

ここからは細かい話になるけれど、

好きになる=惚れるのは状態であって、愛するということとは違う。

愛するというのは行為だ。

さらにもっと紛らわしいのは

愛されると愛するということだ。

恋をしている状態の人にとって、

愛することと愛されることを厳密に区別することは難しい。

けれど、愛されるよりも愛することのほうが100倍も尊いし、

恋は愛することにあると思う。

そしてお互いに愛し合うことが恋愛なんだろう。

 

これもよく聞くのだけれど、

『嫉妬する』=『好き』なのではないと思う。

順序が逆だし、そもそも同じものじゃない。

嫉妬というのは(またはやきもちとも言うけれど)、ただの独占欲。

この独占欲の強さは人によって全く違う。

それは価値観による。

価値観は生まれ育ってきた環境やそれまでの経験によって形成されると思う。

おれとかは物とかには昔から執着しなかったなw

欲しいものも特になかったし、自分の意見にあまりこだわりもなかった。

良く言えば、柔軟なんだろうけど、自分にとってはなんか冷めてて嫌いだ。

たぶんおれの円は狭いんだろうなぁ。

 

そうそう!円!!

これは尊敬できる予備校の先生が話してたことなんだけど、

人には一人一人に自分を中心にした円がいくつもあるんだ。

一番内側からは例えば、自分、家族、恋人、親友、友達、学校の人、って感じに円は広がっていって

終いには日本国民、黄色人種、人類って感じになっていく。

内側の円がなかったらないほど、その人は哀しい。

 

さてさて、これがどう恋愛論に関係するかと言いますと、

この同心円は人それぞれみんなが持っています。

内側の円が重なれば、その人とは親密な仲になっていって、

人によっては恋人仲になります。

もちろんこの同心円はみんながみんな同じものではないので、多少摩擦が生じます。

これが激しいとケンカというものになるのです。

対人関係において、譲ったり頑固になったりするのは、

その時の自分の同心円をどう動かすかによって決まります。

たとえば自分が何らかを譲る場合、その時は自分の同心円を相手に合わせたり、広げたりします。

逆に頑なになったりする場合は自分の同心円は絶対に動かしません。むしろ狭めたりします。

 

この辺で勘のいい人は気付くでしょう。

この同心円の広さが価値観であり、恋愛時(付き合ってる状態)のときのお互いの距離なんだ!

例えば日本人に多い、典型的な尽くすタイプの人は基本的に相手に合わそうとするため、この同心円を広げます。

その結果、自分の所属している社会を広げていくので、しだいにその人の個性が失われていくのです。

そのことはおれみたいな同心円をあまり動かせない人から見ると「おいおい」ってことに見えてしまうのだ。

 

おれは「運命の人」ってのを信じます。

おれにとっての運命の人ってのは自分の同心円の一番内側の円とピッタシ内側の円に重なる人だと思ってます。

そんな人はまずいないだろうなぁ。ってか今まで会ったことないだろうし。会ってても気付いてないのかもなw

まぁそれほど確率の低いものだと思うから、「運命の人」って表現はぴったりだと思う!

これにておしまい!ここまで読んだ人はえらい!!ありがとう!!!

 

 

 

 

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